卒論指導と小山田咲子さんのこと(1)

1月は卒業論文の追い込みシーズンである。最近の学生の文章力が落ちているのか、はたまた「この先生は文法的な間違いは放っておいても直してくれるわけだから、自分で推敲するよりもとりあえず見せちゃった方が楽」と思われて(要するにナメられて)いるのか、まあとにかく読みづらい文章を添削させられている。「ら抜き言葉はやめる」、「体言止めはやめる」、「主語と述語の対応関係を意識する」、「そこは抽象化して語る」、「そこには具体例が必要」、「他者的視座で読み返す」、「自分に厳しく、読者にやさしく」。教えても教えてもなかなか伝わらない。卒論指導は賽の河原に石を積むような作業であると思う。

ひょんなことから気になりだした小山田咲子さんのエッセイ集(『えいやっ!と飛び出すあの一瞬を愛してる〔新装版〕』海鳥社、2013年)を、添削の合間に読んでいる。

https://www.amazon.co.jp/dp/4874158986/

 小山田さんは、2005年9月29日、アルゼンチンを旅行中に、同行した友人の運転する車の助手席に乗っていて事故に遭い、亡くなった。当時24歳だったという。この本には、2002年10月から2005年9月まで(21歳から24歳)の間に彼女がウェブ上に綴っていた日記が収録されている。

小山田さんと僕の間に面識は、もちろんない。ただし、他人だとは思えなくなるような共通点がいくつかある。まず、1981(昭和56)年生まれということ、そして、2002年にウェブ日記をつけ始めていることである*1。僕も、2002年の大学3年生だったあの頃、何か特殊なスキルがあるわけではないけれども、それでも何かを表現したくて、居ても立ってもいられなくて、右も左もわからないままウェブ日記を書き始めたのである。

小山田さんの日記には、「自分と一緒だな」と思える箇所と、「この時期の自分には到底無理だったな(この歳でこんなことができていたんだ!?)」と思える箇所がある。同い年であるがゆえに、ついついそういう読み方をしてしまう。

「自分と一緒だな」と思える箇所の1つめは、ウェブ日記をつけ始めた時期の文体のおぼつかなさである。自分の文体を模索しているかのような不安定さが見え隠れしているように思う。これは僕の場合も同じだった。自分のウェブ日記を読み返すたびに、つけ始めの時期の文体がこっぱずかしくて、しばしば消してしまいたくなったことを思い出す。

ところが、小山田さんの場合、そのおぼつかなさが、ものの1ヶ月ですぐになくなっている。2002年11月頃には、既に自分の文体を確立しているように見える。これは「自分には到底無理だった」箇所である。僕は自分のスタイルを確立するのに1年はかかったように思う。

「自分と一緒だな」と思える箇所の2つめは、これは至極単純な話ではあるが、文中に登場するコト・モノの中に、自分も当時、読んだり、聴いたり、観ていたもの、あるいは関心を持っていたものが少なからず含まれているということである。ざっと書き起こしてみるだけでも、チベタン・フリーダム・コンサート(p.107)、花村萬月の『二進法の犬』(p.137)、NATSUMEN(p.223)、カエターノ・ヴェローゾ(p.265)。こんなに素敵な人と同じものを見聴きしていたのかと思うと、ちょっと嬉しい。

その一方で、小山田さんのインプットの量はすさまじい。音楽だけでなく、映画、演劇、文学、そしてしばしば旅行。これは「自分には到底無理だった」と思う箇所である。これだけのインプットがあれば、わずか1ヶ月のうちに自分の文体を確立してしまったのも、妙に納得である。とくに旅行がうらやましい。もう一度学生をやり直すことができるならば、もっともっと旅行をして、多様な文化、多様な価値観に触れたい。今、そのことだけが悔やまれる。学生にも常々「若いうちの海外旅行だけは借金してでもするように」と言っている。その意味では、小山田さんの学生生活は僕からみると理想的なのである。

そういうわけで、小山田さんの国際経験は20代そこそこの学生としては相当なものである。圧巻だと思ったのは、2003年9月11日から4回に渡って連載されている、海外のユースホステルでの出来事である(pp.155-168)。小山田さんは、BVJルーブルというユースホステルで、ドイツ人、アメリカ人、ロシア系イスラエル人、トルコ人、フランス人に彼女を加えた女子6人で議論する。そこで、パレスチナ問題、ホロコースト核兵器などの問題が絡み、一時は険悪な空気が流れるものの、根気よく対話を続けるうちに相互理解の糸口が見つかる、という話である。まとめ方がまたすばらしい。「美しいものを美しいと感じる心には、国家や民族の見えない壁を一足飛びに超える強さがある。もっと言えばそれは教育や論理をもってしても動かしえない、人間の本能が司る感覚だと思う。文化や宗教といった非論理的なものがもたらす人間同士の争いを、各人の論理で割り切って解決しようなんて土台無理な話ではあるのだ」(p.168)。自分は学部4年生9月の時点でこれを書けただろうか? いやそれどころか、37歳になった今でもこんな文章は書ける気がしない。

「自分と一緒だな」と思える箇所の3つめは、小山田さんが、就職活動にいまひとつ身が入っておらず、また、とりわけ4年生の頃には卒論の執筆にも身が入っていないように見える点である。あくまで推測になるが、小山田さんも、何らかの形で「表現」に関わる進路に進むのか、無難に就職するのか、迷っていたのではないかと思われる。2003年4月14日の「思いの強さ」というタイトルの投稿からして、書き出しこそ就職活動への言及があるものの、主題はどちらかといえば、「夢を追うこと」の方にあるように読み取れる。

「最近気まぐれに就職活動などということをしていて、よく思うのは、結局すべては自分の中の問題だなあということ。…(中略)…希望とか目標にしてもそうで、要はどれほど夢中になれるかということのような気がする。私の周りでもやりたいことをやっている人というのは皆すごく対象に集中して、気持ちと体を全部そこに向けて動いている。その結果ある価値を手に入れた人に対して運が良いとかいう安直な言い方する人がいるが、それはちょっとどころじゃなく間違っていて、やりたいことに真っ直ぐ向かう人は自分でも努力していると意識しないくらいの自然さで可視不可視の努力をしていて、その前向きさは周りの状況すら自分に向いた方向にねじ込んでゆく強さを生むから、結果がついてくるのだと思う。/やりたいのにやれないというのは言い訳、というより、やりたい気持ちが足りないかあるいは自分が完全に自分と向かい合う環境を作れていないだけの話なのだろう。人が本当に何かをやろうと決めた時にはそれを邪魔するような強大な壁って実はあんまりなくて、環境はむしろびっくりするような偶然を用意して背中を押してくれることも多い」(pp.108-109)

3回生の終盤から4回生にかけて、自分は何を考えていただろうか。何らかの形で表現活動をしたい、具体的にいえば、何らかの形で文章を書く仕事に就きたいと思っていたような気がする。作家か? 評論家か? 選択肢はいろいろある。しかし、いずれもそう簡単になれるような職業でもない。だから、「保険」の意味も込めて就職活動もしてみるわけだが、そんな中途半端な態度でうまくいくはずもなく*2、かといって卒業論文の執筆にも身が入らなかった。ところが、厄介なことに、身が入らないなりに卒業論文もまた「自分の表現物」という感覚はあるわけで、「不本意な仕上がりの卒業論文を提出すること」は許せない。今思えば、面倒くさい自意識だったなと思う。院試の勉強にも身が入らず、卒業を1年延ばすことにし、結果的には卒業論文もじっくり書き直すことにした。後述するように、小山田さんも卒業を1年延ばすことになるわけだが、ひょっとしたら僕と似たような経緯があったのかもしれないと思った。

小山田さんの日記の中では、3年生の冬(2002年12月11日)に初めて卒業論文のことが登場する。卒論指導担当がW田先生に決まったことが記されている(p.57)。その後、4年生の夏(2003年7月13日)に「W田先生と、共に卒論指導を受けるクラスメイトたちとで飲みに行」(p.142)った時のエピソードが紹介されたあと、暫く卒論の話は出てこなくなる*3。卒論はいつ提出したのだろうか? と思っているうちに、2004年4月2日の日記で「大学生活も5年目を迎え」(p.197)たことが示される。「就職活動をやめたこととか、先の見えない研究の道のり」(p.208)という記述が、この時、何が起こっていたかを考えるうえでのヒントである。 

次に卒論の話が登場するのは、2004年12月10日の「卒論」(p.234)、12月13日の「悲鳴」(pp.235-236)、12月17日の「製本」(pp.236-237)、そして12月18日の「提出」(pp.237-238)。ここに至ってようやく、めでたく卒論を書き終えたことがわかる。年度が変わって、2005年4月11日の日記には、「おかげさまで元気なうえ、いろんなことに整理がついて良いタイミングで新学期です。そこで、近況報告をしたいと思います。/まず、先月の25日に学部を卒業しました。さっき『新学期』と言ったようにまだ微妙に学生をしていますけど。ひつこいね」(p.251)との記述がある。

ところで、「まだ微妙に学生をしています」(p.251)とは、どういうことだろうか?5年生4月の時点での「先の見えない研究の道のり」(p.208)という表現も含めて、気になるところである。僕と同じように大学院に進学したということなのかもしれないが、巻末の「小山田咲子略年表」の中には、そのような情報は載っていない。

ところで、小山田さんの卒業論文は、部分的に…であれば公刊されている。

ちょうど卒論指導中だったこともあって、小山田さんの卒業論文が気になった。仕事柄、他大学の図書館から論文のコピーを取り寄せることは朝飯前である。ひょっとしたら卒業を1年遅らせた理由がわかるかもしれないし、それに何より、あれだけの感性を持っている人の卒論はどういうものなのか単純に興味も湧いてきて、コピーを取り寄せてしまうことにした。(つづく)

卒論指導と小山田咲子さんのこと(2:完) - にゃまぐち研究室

*1:これらに加えて、幼少期を福岡県(彼女は飯塚、僕は久留米)で過ごしていること、子どもの頃どうやら親に山登りに連れていってもらっていたこと、さらに大学で1留し計5年かけて学部を卒業している点も、共通点といえば共通点である。

*2:補足しておくと、2003年当時は、日本社会が就職氷河期から完全には抜け出し切っていない時期であったと記憶している。

*3:2004年1月25日の日記に「今日こそは何が何でも書き上げる」(p.186)という記述があるので、ひょっとしたら卒論のことかもしれないと思ったが、後述するように小山田さんの学科(専修?)の卒論提出締切は例年12月のようである。おそらくは卒論とは別の何か(レポート?)ではないかと思われるが、真偽のほどはわからない。