オオクボ君は正しかった
令和時代がはじまった。いい機会なので、平成時代がはじまった時の個人的な記憶を書き記しておきたい。
その頃の僕は福岡県久留米市にいた。昭和天皇が亡くなったのは、小学校1年生の冬休み終了間際のことだった。ちなみに、僕はテレビっ子ではあったが、残念ながら小渕官房長官(当時)の例のあの記者会見については、視た記憶がない。
あれよあれよという間に元号は「昭和」から「平成」へと改められた。
3学期の始業式の日、式に先立ってクラスでの集まりがあった。「朝の会」(ホームルーム)に相当する時間である。担任の先生は、当然のように新しい元号「平成」に言及した。
正確な文言を記憶しているわけではないが、おそらくこんな感じだった。
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担任:「みなさん、おはようございます。冬休みは楽しかったですか?……ウンタラカンタラ。さて、皆さんも既にご存知のように、元号が『昭和』から『平成』に変わりました。『平成』という元号には、これからつくりあげていく時代をどういうものにしていきたいかという、願いが込められています。『平成』の『平』は…」
その時だった。クラスメイトのオオクボ君が、担任の先生を食い気味に、こうかぶせた。
オオクボ君:「平和に!」
担任の先生も応じる。
担任:「………、その通り! 『平和』の『平』ですね!」
ところが、その次が担任の想定通りにいかなかった。
担任:「では『平成』の『成』は…」
オオクボ君:「戦争をしない!」
担任:「………。そ、そうですね…モゴモゴ」
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僕も「違うんじゃないか?」と思った。当時の僕は、「平成」の「成」は「成長」の「成」ではないかと考えたように記憶している。「成長」と「戦争をしない」は、頭文字の平仮名「せ」が一致しているだけではないか。
また、大人になった今言えることとしては、「成」という字の意味は、「成長」というよりも、むしろ「成る」という意味だろう。とすれば、新元号の「平成」には、「平和に成る」転じて「平和を達成する」という願いが込められている。そう解釈する方が自然だろう*1。
「朝の会」が終わったあとは、始業式のために全校児童が体育館に集められた。今度は校長先生のスピーチである。内容はやはり「平成」ネタだった…
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校長:「『平成』の『平』は…」
オオクボ君:「平和に!」
校長:「…『平和』の『平』。『平成』の『成』は…」
オオクボ君:「戦争をしない!」
ここでもやはりオオクボ君の声は体育館中に響き渡った。
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あれから30年が経ち、改めて思い返してみると、リアルタイムで抱いたのとはまた違った感想も浮かんできた。
1つは、「平成」という元号の意味それ自体は「戦争をしない」という理解で問題ないということである。今にして思えば、担任の先生にしても、校長先生にしても、まず、「平成」を「平」と「成」に分解したうえで、それぞれの字義を確認したあと、改めて「平成」という新元号に込められた意味を解説しようとしていたのである。つまり、オオクボ君は、先生が「成」という字の意味を解説しようとしている段階で、フライング気味に「平成」という言葉の意味を語ってしまったのである。
もう1つは、仮に「平成」の「成」の意味を「成長」の「成」と解釈するのだとしても、そこに「戦争をしない」という意味を込めるのはあながち間違いではないということである。いやよく考えると、「戦争をしない」ようにすることは「成長する」ということそのものではないか。広島の原爆死没者慰霊碑に「過ちは繰り返しませぬから」と刻まれていることが思い出される。
そう考えてみるとなおさら、やっぱりオオクボ君は正しかったと言わざるをえない。
30年間を通して、日本という国は本当に「成長」できただろうか。具体的な出来事への言及はあえて避けておくが、「成長」とはいえないような出来事や論議も、散見されるようになってきた、というのが正直なところでもある。
*1:ちなみに、「成」という字は、小学校4年生になって初めて習う漢字である(cf. 別表 学年別漢字配当表:文部科学省)。しかし、僕の家では、小学校で習う漢字の学年別の一覧表がトイレに張り出されていたこともあり、小学校中学年になってから習う漢字についても、小1の時点でかなりの程度読めるようになっていた。