里山資本主義の社会科学的位置づけ

里山資本主義』を著した藻谷浩介さんが近々松山にお越しになる、と聞いて、サブシステンス経済に関する議論をふと思い出した。

石垣島・西表島・竹富島の思い出(3):MIRAB経済試論 - にゃまぐち研究室

Bertram and Watters 論文から抽出されるのは、ある地域における経済のあり方に関する以下の3つの調整様式である*1。詳しくは、上述したエントリーも参照されたい。

ちなみに、上記3つの調整様式を三角形の図にしてみた。

 

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上記3つの調整様式はあくまでも理念型である。つまり、

  • 純粋なサブシステンス経済
  • 純粋な市場経済
  • 純粋なMIRAB経済

として把握できる実在の地域がどこかにあるとは考えない方がいい。

むしろ、

  • サブシステンス経済のウェイトの大きい地域
  • 市場経済のウェイトの大きい地域
  • MIRAB経済のウェイトの大きい地域

がある、と理解しておいた方がよい。また、Bertram and Watters 論文において、上記の3類型は、ナショナルスケールの分析のために用いられていたが、おそらく国内の島嶼を分析する際にも有用なはずである。上述したエントリーではそういう議論をした。

とはいえ、何も島しょ部に限る必要はない。中山間地域を分析する場合にも、上記の枠組みは有用である。

数年前に訪問した、四国の中山間地域のある町では、歳入の半分が国から交付される地方交付金であった。これはMIRABっぽい。

その収入の多くが、公務員の給料になっていく。これもMIRABっぽい。

第3セクターの企業に多くのお金が投下されている。これもMIRABっぽい。

民間企業のために多くの補助金を使っている。しかし、補助金頼みでなかなか自立化しない。これもMIRABっぽい。

その町では、年金生活の高齢者が多い。これもMIRABっぽい。

その町では、産業を育成することが地域的課題であり、各種の取り組みは、「焼け石に水」程度の成果しか生み出していない。これも、市場経済的というよりMIRAB的な兆候である。

その町の子どもたちの多くは、その町に働き口がないため、大きくなったら町を出て、相対的に都会な場所で働くことになる。これはちょっとMIRABっぽい。さらに、都会で稼いだ金を、その町にある実家に送金している家があるとすれば、めちゃくちゃMIRABっぽいが、さすがにそういう家があるかどうかについては確認できなかった。

上記のように、その町には無数の「過疎の町あるある」があった。とはいえ、その町では、米もつくっているし、農作物もとれる。いざとなったら山に食料をとりにいくこともできる。おすそ分けで回ってくる食べ物も多い。年間収入が120万円程度の人でも、何とか生きていくことはできる。これはMIRAB的ではない。市場経済的でもない。サブシステンスな兆候である。

里山資本主義」は、上記のようなサブシステンス経済を再評価しようという議論として読むことができる。あるいは、市場経済か? or MIRABか? としか問題提起してこなかった、オーソドックスな地域づくり論議に、第3のオプションを提示した。サブシステンス-市場-MIRABの三角形を描いてみると、そのことがなおさらよく理解できる。

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しかし…、である。80年代のニューアカブームを経験した読書人なら、既にニヤニヤしていることだろう。Bertram and Watters なんてマイナーな議論*2を引っ張ってこなくたって、カール・ポランニー(K. Polanyi)の3類型で事足りるんじゃないのか…、と。

よく知られているように、ポランニーは、経済社会の調整様式のパターンを、互酬・再分配・交換の3つに類型化した*3

「交換(exchange)」とは、貨幣によって媒介される生産物(財・サービス)の社会的移動のことである(厳密にいえば「市場交換(market exchange)」と表現すべきだが、煩雑化するので「交換」と表記する)。

「互酬(reciprocity)」とは、フラットな個人間・集団間における貨幣を媒介としない生産物のやりとりのことである。概念化にあたっては、ギブ・アンド・テイクの関係や、相互扶助関係が念頭におかれている。おすそ分け文化は「互酬」っぽい。田植えや稲刈りなどのような農作業の繁忙期に、農家同士が労働力を融通し合って手伝い合うのも「互酬」っぽい。やりとりしているのは貨幣になってしまうが、冠婚葬祭でお金を包み合うのも「互酬」っぽい。

「再分配(redistribution)」とは、中心性に特色づけられる生産物のやりとりである。ある部族の労働の成果が一端部族長に集められたのち再び個々の構成員に分配される場合のように、中央に向かう動きと、そこから再び外に向かう動きを含んだものである。ポランニーの枠組みを現代社会にあてはめて理解しようという議論においては、再分配の主体は、政府や地方自治体と理解されることが多い。われわれの納めた税金が政府や地方自治体に集まり、行政サービスの形でわれわれのもとに帰ってくる。

交換-互酬-再分配で三角形を描いてみた。さきほどの三角形と対応するように描いてみたつもりである。

 

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つまり、市場経済と交換は対応関係にある。サブシステンス経済と互酬も完全に一致しないまでもかなり親和的な関係にある。同様にMIRAB経済と再分配も親和的である。

里山資本主義」を、上述した「互酬の経済」的文脈でとらえ直すと、ポランニー的経済社会学がこれまで積み上げてきた研究成果と接合できるようになるだろう。それはそれでおもしろそうである。

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家族類縁的な三角形は、他の議論からも抽出できる。

上記の本も一世を風靡した。三角形の頂点に「NPO」ないし「ボランタリー経済」を持ってきてみた。

「ボランティア」には、「情けは人にためならず」の精神で「貨幣を介さずに労役を提供し合う」側面がある。だから、多かれ少なかれ「互酬」的でもある。

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大きな政府」や「小さな政府」の議論になってきたならば、こういう三角形とも親和的であるといえなくもない。

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ちょっと話が大きくなりすぎた感はある。ここで、リベラリズムの出発点とされるロールズや、リバタリアニズムハイエクノージック、さらにはコミュニタリアニズムのサンデルなど、大御所の議論を全部拾うのは、今の僕の能力では難しい。見取り図としてこの本*4を読ませていただいた。

もっとも、「互酬の経済」や「サブシステンス経済」、さらには「ボランタリー経済」までもが、「コミュニタリアニズム」と親和的である、と直ちに言い切ってしまうのは、ちょっと乱暴すぎるかもしれない。この点については、改めて検討してみたいと思う。

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以下、ここまでの議論の整理と感想。

  • 経済社会はどのようにまわっているのか? あるいは経済社会をどのように設計しうるのか? といった論点に関する議論を管見すると、家族類縁的な三角形を描くことができた。
  • 三角形の頂点が何を表すのかについては、以下のように整理できる。

 

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  • 領域Ⅰの中には、「自然(1次産品)からの恵みを大いに活用する経済」というニュアンスと、「自発的に助け合う」というニュアンスが含まれている。2つのニュアンスをどう整理するか?
  • 個人的には、「里山資本主義」のさらなる理解や普及のためには、2つのニュアンス両方に対する理解が必要になると考えている。
  • ついでにいえば、三角形思考は、二項対立の問題点を多少なりとも緩和するために重要である。

以上、考えたことを、考えた順に書きなぐってみた。あとでその先をまた考えたいテーマなので、稚拙なメモに近いけれども、敢えて公開しておくことにした。

ところで、こうやって整理してみると、社会科学は同じところをグルグルと回っているだけなのかもしれないな、とつくづく思う。

*1:Bertram, I. G. and R. Watters (1985) "The MIRAB Economy in South Pacific Microstates," Pacific Viewpoint, 26(3): pp.497-519.

*2:といっても、開発経済学の古典と言われる程度には有名なのだが…

*3:Polanyi, K. (1957) “The Economy as Instituted Process,” K. Polanyi, C. M. Arensberg and H. W. Pearson (eds.) Trade and Market in the Early Empires, Glencoe: The Free Press, pp.243-270(石井 溥訳「制度化された過程としての経済」K. ポランニー/玉野井芳郎・平野健一郎編訳『経済の文明史――ポランニー経済学のエッセンス』日本経済新聞社、1975年、259-298頁).;Polanyi, K. (edited by H. W. Pearson) (1977) The Livelihood of Man, New York: Academic Press(玉野井芳郎・栗本慎一郎訳『人間の経済I――市場社会の虚構性』;玉野井芳郎・中野 忠訳『人間の経済II――交易・貨幣および市場の出現』岩波書店〔岩波現代選書【特装版】〕、1998年).

*4:有賀 誠・伊藤恭彦・松井 暁編(2000)『ポスト・リベラリズム:社会的規範理論への招待』ナカニシヤ出版。