『商業界』の破産に思うこと

もう1週間ほど経ってしまったが、雑誌『商業界』が破産したというニュースに、少し驚いた。破産の手続きは4月2日から開始されていて、負債総額は8億8000万円とのこと。

 

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いちおう流通研究者の端くれなので、ウチの研究室ではいちおう『商業界』を購読していた。今になって思えば、2017年頃から、それまで無線綴じだった雑誌が、中綴じに変わっていた。この頃から、懐事情も厳しかったのだろうか…

ところで、『商業界』に関しては、さほど積極的に購読していたわけではない。むしろ、今、商店街で元気にやっている知り合いの商店主たちの顔を思い浮かべれば思い浮かべるほど、彼ら・彼女らの価値観とはまったくもって合わない雑誌だと、常々思っていた。普段お付き合いしている商店主たちは、「お客様のために店を毎日開ける」などとは微塵も考えておらず、むしろ「自分のペースを重視しながら商売を続けたい」という思いが強い。したがって、「家庭の事情(例:子どもの運動会)で急遽店を休む」こともしばしば。「顧客志向」というよりも「自分のこだわり」や「家族との時間」を重視しているし、顧客の側もそれでいいと思っている。そもそも、顧客のことを「お客様」などとは呼ばない。一定以上の年齢の商業者ならおそらく噴飯ものの経営スタンスなのである。
けれども、それくらいワークライフバランスや「自分らしい生き方」を重視している商店主の方が、消費者の支持を集める時代になりつつある。とくに地方の商店街では、それくらいぶっ飛んだ(?)商店主でないと、生き残っていけなくなっているし、それくらいのバイタリティをもった商店主にとっては、地方の衰退商店街こそ「楽園」なのである。昨年、書かせていただいた拙稿にも、それらしきことは一部盛り込んであるので、ご興味のある方はご高覧いただきたい。

CiNii 論文 -  衰退商業地における新規開業事例に関する研究:― 松山市三津地区におけるワークライフバランス事業者を事例にして ―

その点、『商業界』は、「顧客志向」や、「お客様」というスタンスは、最後まで崩せなかった。

販売技術系の特集(例:「ポップのつくり方講座」)もよくやっていたと記憶している。お付き合いのある商店主たちは、情報量の多い、ビレバン的なポップはむしろ毛嫌いしていたように思う。商品名と価格をシンプルに手書きするくらいのポップを多用していて、そもそも、店舗の内装のつくり方や商品の陳列の仕方がうまいので、ポップなしでも商品のよさが引き立っていた。そういう意味でも、彼ら・彼女らは『商業界』なんて必要としていなかった(存在すら知らなかったと思う)。ただし、そもそも雑誌なんて読まない層かというとかならずしもそうではなく、たとえば『ソトコト』や『スペクテイター』は手に取ったりしていた。

三種の神器(100円商店街・バル・まちゼミ)」に代表される商店街イベントの紹介特集も多かった。「三種の神器」は、それぞれのイベントの設計思想それ自体はよかったが、比較的近年は、横展開しすぎたことの問題も顕在化していたと思う。また、お付き合いのある商店主には、よその「成功例」を自分のまちに「導入」してみるというのを、ことのほか嫌う人が多かった。そういう意味でも、彼ら・彼女らが『商業界』を手にとるはずがなかった。

というふうに、「このタイプの人たちが、これからの商店街を担うだろう」と思うに足るような人のペルソナを思い浮かべてみると、『商業界』的センスとはことごとく適合しないのである。

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ただし、僕自身、大学院生の頃から、『商業界』には大いに学ばせていただいたし、それに何より、倉本長治さんが『商業界』を立ち上げた意義それ自体はとてつもなく大きいと考えている。

『商業界』は終戦後まもない1948年に創刊された。当時、とりわけ都市部において、最も雇用吸収力をもった産業部門の1つが小売業であった。「戸板に商品を並べておけば売れた」時代でもあった。特別なスキルももたず、行くあてのない者の多くが、小売店舗を開業した。そうした人々に、「顧客志向」の重要性を説いたのが倉本さんであり、『商業界』であった。「特別なスキルももたず、行くあてもない者」たちに商人精神を説き、最低限の販売スキルを広めたところに、『商業界』の意義の1つがあるように思う。

ただし、現在は、(あんまりよい言い方ではないかもしれないが…)「特別なスキルももたず、行くあてもない者」が、いきなり小売店舗を開業するような時代ではもはやない。そういう人たちを吸収しているのは、もっと別のセクターになるだろう。だから、商人精神を啓蒙し続けるとしても、終戦後すぐの時代とはまた違った意味づけが必要だったように思うが、はっきりとしたコンセプトを再構築できていたかというと、かならずしもそうでないような気がしてならない。