2020年甲子園高校野球交流試合

極めて感覚的な話だけれども、今夏の高校野球には例年とは違うすがすがしさを感じた。

例年は、多くのシーンにおいて、勝利至上主義的な様相が色濃く立ち現れていたように思うけれども、今夏は、目の前の1試合をいかに気持ちよくやりきるか?が主要テーマになっている。少なくともハタから見ていると、そう見えた。

「優勝をめざす」必要がなくなるだけで、高校野球はこんなに変わるのかと、こっそり感心した次第である。

かえって小売店舗に人が集まっていないか?

新型コロナ禍はまだまだ続きそうである。

例の緊急事態宣言以降、飲食店を通常営業することに対して、世論の風当たりが強くなってきた。知り合いの飲食店の多くも、テイクアウトに切り替えるか、いっそのこと「しばらくお休みします」ということにしてしまった。

また、行き着けにしていた居酒屋にいたっては、「新コロ騒ぎがいつまで続くかわからない中で休業するくらいだったら、いっそのこと店を畳んでしまって、ほとぼりが冷めてから改めて新規出店し直す。家賃がもったいない」と言い始めた*1

ところで、ちゃんとデータを見たわけではないが、スーパー、ドラッグストア、100円均一などのような、巣ごもり消費のための必要物資を販売する小売店には、平時以上に消費者が集まっているようにも見受けられる。東京では、小売店に行列ができることも珍しくないらしい。ここ愛媛でも、行列ができているとまでは言えないかもしれないが、行き着けのスーパーにはやっぱりまあまあ人がいる。飲食店が軒並み休業してしまっていることも、無関係ではないと思う。

そこでこんなことを考えた。まあまあ人がいるスーパーに買い物に行く際の新型コロナ感染リスクと、ガラガラで閑古鳥が鳴いていてほぼ貸切状態の飲食店での感染リスクは、どちらが高いのか? ひょっとすると前者の方が高いのではないかな、とも思うわけである。

この点に関して、諸々ツッコミどころはあるとは思うけれども、ちょっとした模式図をつくってみた。

1枚目の図は、小規模の飲食店が適度に分散的に立地していて、住民(消費者)はそれらの飲食店を食堂代わりに使っている地区をイメージしている。ちなみに点線の矢印は、「商品の流れ」ではなく、「買い物出向」を表している。

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上の図の想定だと、食材の買い出しは、少数の飲食店主によって担われることになる。飲食店主は、食材を、取引先の卸売業者から仕入れたり、あるいは近所のスーパー(小売店)で仕入れたりしている。やや非現実的な想定かもしれないが、この地区には、スーパーが1店舗しかないことにしよう。この図の場合、飲食店主たちが、あたかも消費者の代表を演じるかのように、小売店舗(スーパー)で食材を仕入れていることになる。消費者全員が小売店(スーパー)に押し寄せるよりも、小売店(スーパー)の混雑具合はマシなものになるはずである。

ところが、飲食店がなくなってしまうと、消費者は、自ら小売店舗(スーパー)に食材を購入しに行かなくてはならなくなる。そこで、すべての飲食店が休業ないし閉業した場合を想定して、2枚目の図をつくってみた。

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 地区に1店舗だけあるスーパーには、当該地区の住民(消費者)全員が押し寄せることになる。しかも、図では、住民(消費者)が6人しかいない地区を便宜的に想定しているが、実際には、もっと多くの住民(消費者)が存在するはずである。

2枚目の図の世界の方が、ウイルスが蔓延しやすいという考え方もできるかもしれない。そして、今現在の日本の状況は、どちらかというと2枚目の図の方に近いのではないか。
生活必需品、とくに食べ物の供給体制については、小さな飲食店も含めて、もう少し柔軟に考えてみる余地があるかもしれない。

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もちろん、上記の考察には、多くのツッコミどころがある。

1枚目の図は、地区住民全員が毎日外食し続ける状況を意味しているから、非現実的すぎて頭にスっと入ってこないという人もいるだろう。

また、(仮に行列ができていたとしても)必要なものをサっと買ってサッと帰るだけの小売店での感染リスクは、相対的に長時間店に滞在し、マスクを外して口に食べ物を入れるような飲食店での感染リスクよりも、どう考えても低いだろう、というお叱りの声も聞こえてきそうである。

売店舗(スーパー)に消費者が集まりすぎている問題が仮にあるとしても、通信販売や宅配サービスを充実させることで、その問題は克服できるのではないかという意見もあるだろう。

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まだまだ考察が粗いので、ツッコミどころの多い議論になってしまてはいるけれども、そうはいっても、飲食店が軒並み休業・閉業することで、物販の小売店舗の方に平時よりも多くの消費者が集中し、新たな感染リスクが生じる可能性もある。この点については、上記の単純なモデルからでも指摘することができるだろう。
加えて、ガラガラの飲食店が遊休リソース化している。単純に何とかしてあげたいとも思うし、難局を乗り切るために活用すべきではないかとの考え方もあるように思うわけである。この問題、ひきつづき考えていきたいと思います。

*1:もちろん、しばらく店を畳んでも食いつなげるだけの蓄えもあるし、無借金だし、出店時の投資額もとっくの昔に回収し終わっているから、こういう選択肢を検討できるという側面もある。

集積の利益と不利益にまつわるモヤモヤ

東日本大震災直後にも思ったことであるが、今回の新型コロナ騒ぎも、大都市に集まって暮らすことのデメリットをわかりやすく痛感させられる機会になった。

震災直後の東京圏では、電気が停まり、ライフラインが絶たれ、多くの人が生活苦を味わった。この時、都会生活の基盤が思いのほか脆弱であることに気づいた人の内、少なからぬ人が地方への移住を選択し、2010年代は「移住」がある種のブームにもなった。

今度の新型コロナ騒ぎは、わざわざ説明するまでもなく、より直接的に「集住」の怖さに関する議論を喚起している。

人間は、どうして、そこまでして、大都市に集まって暮らそうとするのか?

都市経済学、地域経済学ないし経済地理学の分野では、大都市には種々の「集積の利益」が発生し、都市型産業の事業者だけでなく、消費者も惹き寄せるから、と議論されてきた。

とはいえ、集積規模が大きくなりすぎると、「利益」(集積の利益)だけでなく「不利益」(集積の不利益)も生まれる。最もわかりやすいのは地価や物価の高騰であろう。地価や物価の高騰は、事業者にとっても、消費者にとっても、支出を増やす要因となる。
ちなみに、工業が都市に集中し、それに伴って労働者たちも都市に集住することで生まれた「19世紀的都市」においては、工場からの排煙などに起因する公害なども「集積の不利益」にカウントされた*1。しかし、「20世紀的都市」は、重化学系の工業を郊外に排出することによって、この問題を一定程度克服した*2。だから、今日的には、消費者にとっての「集積の不利益」として、公害はイメージされにくくなっているかもしれない*3

集積規模が大きくなってくると「集積の利益」のみならず「集積の不利益」も生じることそれ自体については、理論家たちの間でも十分すぎるほど理解されてきた。理論上、事業者や消費者は、集積の「利益」と「不利益」を天秤にかけて、「利益」の方が大きい場合に、大都市への事業所の立地ないし居住を選択する。また、「利益」と「不利益」を秤にかけることによって、理論上は、「適正集積水準」に関する示唆が得られるはずである。

しかし、それ以上に、東日本大震災や新型コロナ禍の経験から考えざるをえないのは、「不利益」はむしろ瞬発的にドッと押し寄せることが多い件について、である。

平時に享受される「集積の利益」と、有事に禁止的に高まる「集積の不利益」を、同時に勘案できるようなモデルが求められている。

1つの方向性として、有事の「不利益」の発生可能性を、平時のリスクとして理解し、平時の「不利益」に読み替えることは可能かもしれない。

しかし、有事の「不利益」は、予想もしないタイミングで、しかも、予想もしない角度から生起する。東日本大震災の発生を予測できていた人はいないし、今回の新型コロナ禍を予測できていた人もいない。リスクの計算は、有事とみなされるような社会的出来事の発生確率がわかっていてはじめて可能になる。それは現実的には難しいのではないかと思う。

そうした地平に立った時、計算によって「適正集積水準」を導き出そうといった志向性はもはや現実的でなくなり、何かこう、まったく別の考え方を適用する必要が生じてくるように思う。

たとえば、昨今取沙汰されているSDGsの中には「誰も取り残さない」という論点が含まれている。そうした論点を出発点にして、想定される(有事の突発的な)「不利益」に生存を脅かされる人の存在それ自体を問題視していく方向性なんかはどうだろうか。そういう人の存在が想定できる時点で、既に「過集積」は成り立っている。そうみなすのである。

政策的意思決定のために、議論を単純化することも、時には必要かもしれない。

*1:よく知られている事例として、20世紀前半に大気汚染が深刻化したロンドンのことを挙げておく。

*2:「20世紀的都市」が主体的に排出したというよりも、従来、工業用地であった土地を、より地代負担力の高い産業が欲しがった結果、と考える方が妥当かもしれない。この点については、通常、付値地代モデルで検討することが多い。cf. アロンゾ, W./大石泰彦・折下 功訳(1966)『立地と土地利用――地価の一般理論について』朝倉書店。

*3:ただし、なくはない。たとえば、交通渋滞による排気ガスの増加など。

『商業界』の破産に思うこと

もう1週間ほど経ってしまったが、雑誌『商業界』が破産したというニュースに、少し驚いた。破産の手続きは4月2日から開始されていて、負債総額は8億8000万円とのこと。

 

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いちおう流通研究者の端くれなので、ウチの研究室ではいちおう『商業界』を購読していた。今になって思えば、2017年頃から、それまで無線綴じだった雑誌が、中綴じに変わっていた。この頃から、懐事情も厳しかったのだろうか…

ところで、『商業界』に関しては、さほど積極的に購読していたわけではない。むしろ、今、商店街で元気にやっている知り合いの商店主たちの顔を思い浮かべれば思い浮かべるほど、彼ら・彼女らの価値観とはまったくもって合わない雑誌だと、常々思っていた。普段お付き合いしている商店主たちは、「お客様のために店を毎日開ける」などとは微塵も考えておらず、むしろ「自分のペースを重視しながら商売を続けたい」という思いが強い。したがって、「家庭の事情(例:子どもの運動会)で急遽店を休む」こともしばしば。「顧客志向」というよりも「自分のこだわり」や「家族との時間」を重視しているし、顧客の側もそれでいいと思っている。そもそも、顧客のことを「お客様」などとは呼ばない。一定以上の年齢の商業者ならおそらく噴飯ものの経営スタンスなのである。
けれども、それくらいワークライフバランスや「自分らしい生き方」を重視している商店主の方が、消費者の支持を集める時代になりつつある。とくに地方の商店街では、それくらいぶっ飛んだ(?)商店主でないと、生き残っていけなくなっているし、それくらいのバイタリティをもった商店主にとっては、地方の衰退商店街こそ「楽園」なのである。昨年、書かせていただいた拙稿にも、それらしきことは一部盛り込んであるので、ご興味のある方はご高覧いただきたい。

CiNii 論文 -  衰退商業地における新規開業事例に関する研究:― 松山市三津地区におけるワークライフバランス事業者を事例にして ―

その点、『商業界』は、「顧客志向」や、「お客様」というスタンスは、最後まで崩せなかった。

販売技術系の特集(例:「ポップのつくり方講座」)もよくやっていたと記憶している。お付き合いのある商店主たちは、情報量の多い、ビレバン的なポップはむしろ毛嫌いしていたように思う。商品名と価格をシンプルに手書きするくらいのポップを多用していて、そもそも、店舗の内装のつくり方や商品の陳列の仕方がうまいので、ポップなしでも商品のよさが引き立っていた。そういう意味でも、彼ら・彼女らは『商業界』なんて必要としていなかった(存在すら知らなかったと思う)。ただし、そもそも雑誌なんて読まない層かというとかならずしもそうではなく、たとえば『ソトコト』や『スペクテイター』は手に取ったりしていた。

三種の神器(100円商店街・バル・まちゼミ)」に代表される商店街イベントの紹介特集も多かった。「三種の神器」は、それぞれのイベントの設計思想それ自体はよかったが、比較的近年は、横展開しすぎたことの問題も顕在化していたと思う。また、お付き合いのある商店主には、よその「成功例」を自分のまちに「導入」してみるというのを、ことのほか嫌う人が多かった。そういう意味でも、彼ら・彼女らが『商業界』を手にとるはずがなかった。

というふうに、「このタイプの人たちが、これからの商店街を担うだろう」と思うに足るような人のペルソナを思い浮かべてみると、『商業界』的センスとはことごとく適合しないのである。

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ただし、僕自身、大学院生の頃から、『商業界』には大いに学ばせていただいたし、それに何より、倉本長治さんが『商業界』を立ち上げた意義それ自体はとてつもなく大きいと考えている。

『商業界』は終戦後まもない1948年に創刊された。当時、とりわけ都市部において、最も雇用吸収力をもった産業部門の1つが小売業であった。「戸板に商品を並べておけば売れた」時代でもあった。特別なスキルももたず、行くあてのない者の多くが、小売店舗を開業した。そうした人々に、「顧客志向」の重要性を説いたのが倉本さんであり、『商業界』であった。「特別なスキルももたず、行くあてもない者」たちに商人精神を説き、最低限の販売スキルを広めたところに、『商業界』の意義の1つがあるように思う。

ただし、現在は、(あんまりよい言い方ではないかもしれないが…)「特別なスキルももたず、行くあてもない者」が、いきなり小売店舗を開業するような時代ではもはやない。そういう人たちを吸収しているのは、もっと別のセクターになるだろう。だから、商人精神を啓蒙し続けるとしても、終戦後すぐの時代とはまた違った意味づけが必要だったように思うが、はっきりとしたコンセプトを再構築できていたかというと、かならずしもそうでないような気がしてならない。

 

 

淡路ヶ峠の空撮映像

昨日の話になるが、松山市桑原地区の東にそびえる淡路ヶ峠(あわじがとう)に登ってきた。

たかだか標高273mの低山なので、「そびえる」は言いすぎかもしれない。けれども、桑原地区においてはそこそこ存在感のある山である。小学校や中学校の校歌の歌詞にも登場するという。

名前の中に「峠」という文字が含まれているけれども、れっきとした山である。「峠」という言葉が「山」という意味で用いられている。ちなみに、四国では、「森」という言葉を「山」という意味で使うことも少なくない*1。その用法と似ている。

登山道は、コースにもよるが、宝ノ谷の砂防ダム横から登るコースや桑原中裏から登るコースが最もポピュラーであろう。地元の有志グループが登山道整備に尽力されておられるようで、とても歩きやすい。スニーカーで十分登ることのできる山である。

そういうわけで、桑原地区の住民のちょっとした散策先として愛されていて、毎日登っている人もいるほどである。知り合いの整体師さんも、運動も兼ねて、ほぼ毎日登っているとおっしゃっていた。

山頂にある展望台からの眺めもすばらしい。松山平野を一望できる。晴れていれば、瀬戸内海(伊予灘)に浮かぶ「ネコの島」こと青島や由利島(DASH島)も良く見える。

その淡路ヶ峠を、上空から眺めてみるとどう見えるのだろうか。気になったのでドローンで空撮してみた。

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やはり空撮した方が、淡路ヶ峠の山頂および展望台はかっこよく見える印象。桑原地区住民は、この展望台から下界を眺めることは多いが、この展望台それ自体を眺めることは少ないのである。
ドローンには、視線のベクトルを180度転換させる効果がある。この論点を応用して、何かおもしろい表現を考えることができないか。しばらく思案してみることにしたい。

以下、若干の反省点。

ドローンで松山平野をフツーに撮影しても、あんまり意味はない。展望台の上からドローンを使わずに撮った映像と、大して変わらないものになってしまう。ドローンでなければ撮れない映像とはどういうものか、感覚を磨く必要がある。
その意味では、淡路ヶ峠の肩越しに見える松山平野を撮影してみると、なかなかおもしろい映像になったかもしれない。つまり、淡路ヶ峠の主稜線(鶴ヶ畝尾根というらしい)の東側にある宝ヶ谷に沿うような形で、カメラを西向きにし、ドローンを平行移動させる作戦である。とくに、空気の澄んだ、夕陽の綺麗な時間帯がのぞましい。それって、まさに昨日のことなのだけれども、思い浮かばなかった。精進します。

*1:たとえば、愛媛県第2位の高峰はニノ森(標高1929.6m)という。また、昨年登った南予の瀬戸黒森も、「森」という言葉が「山」という意味で用いられている山である。cf. 2019年4月、瀬戸黒森から篠山へ。:アケボノツツジ咲き始めてます - にゃまぐち研究室

ドローン初撮影

ドローンを購入してみることにした。購入したのは、DJIのMavic Air

DJI Mavic Airをプロが徹底レビュー!Mavic Proとの違いは? | DroneAgent

 

仕事柄、様々な地域(地区)を訪問させていただいている。中山間地域島嶼部を訪問することも少なくない。そうした場所を訪問するたびに、ドローンで空から眺めてみると、この場所はどんなふうに見えるのだろう、と思ってきた。
また、少し真面目な話をしておくと、ドローンがあれば、蟻の目線では思いもよらなかった切り口から、地域の魅力を掘り起こすことができるかもしれないとも思うし、フィールドワークでお世話になったところに、空撮動画のプレゼントという形でお返しができるかもしれない。地域に分け入るためのツールの1つとしても、ドローンには期待できる。
そんなわけで購入してみることにした。
いざ届いてみると、飛ばし方を詳しく書いてくれている取り扱い説明書がない。よくわからない部品やコードがたくさん同梱されている。取説を読んで、飛ばし方をしっかりマスターしてから外に出るのではなく、まずは飛ばしてみることが大事そうな気がした。
それで、人に迷惑をかけずに空撮できる場所はないかと考えた結果、思い当たったのが、昨年、学生を連れて何度も訪問させていただいた久万高原町の「由良野の森」。ついでにいえば、今時分ならちょうど桜が綺麗だろうとの目論見もあった。由良野の森で暮らしている鷲野夫妻にお願いしてみると、快くOKが出たので、昨日、お邪魔してきた。

実際に撮影した映像を編集したものを、Youtubeにアップしておいた。ご興味のある方はご高覧いただきたい。 歩き遍路さんを収めることができたのはよかった。撮影中に気づいていたわけではないので、うれしい誤算である。

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ドローンの操縦は思いのほか難しい。コントローラーには、棒が2つ付いていて、左側の棒で、上昇・下降・水平回転を操作する。右側の棒は任意の方向への水平移動を操作する。操作棒を思うままにガチャガチャ動かすと、撮影した動画がカクカクした動きになり、とても見にくい動画になってしまう(画面酔いしそうな動画)。だから操作棒はそーっと動かす必要がある。慣れるのに小一時間はかかった。

ドローンは思いのほか遠くまで飛ばすことができる。コントローラーにスマホをつなげることで、カメラで撮影している動画をリアルタイムでモニタリングすることができる。モニターの方に夢中になっていると、ドローン本体を見失いそうになることが一再ならずあった。横に付いていてくれた妻が、「今、ドローンはどこそこにいる」とか、「そっちに行くと高い木がある」とか、教えてくれて助かった。初心者のうちは、横にもう1人付いてもらいながら飛ばすのが安心である。
購入前のイメージを覆されたことがもう1つ。動画を撮り貯めていくと、PCの記憶容量を大いに費消することになる。だから、ドローンを弄り始めたら、外付けHDD貧乏になる可能性が高いのだろうなと思っていた。ところが、そもそも、バッテリーがそんなに長いこと持たない。連続して飛び続けることのできる時間は、1つのバッテリーでせいぜい10分という印象だった。だから、記憶容量云々それ以前に、限られた時間、限られた飛行回数で、いい映像を撮る能力が求められる。ドローンを飛ばし始める前に、上空から何をどんなアングルで撮るのかイメージできていることが望ましい。1人前のドローン使いになるためには、3Dの空間認知能力が必要である。

2019年度を振り返る

2019年度を振り返っておきたいと思ったが、深い考察を書いている時間はないので、「あとで掘り下げたい」と思うポイントを備忘録的にメモするに留めることにした。それも、気になったこと全てというよりも、流通業界に関連することを中心に2点だけ*1

1つは、コンビニエンスストアのビジネスモデルが再考を余儀なくされつつあるということである。24時間営業をやめる?やめない?といった論点は、ここ数年、継続的に議論されてきたが、昨年度は、いよいよフランチャイザー(FC本部)の側にも、24時間営業を必要不可欠とする姿勢を軟化させ始めたかにみえる動きが目立った。床屋談義的に言えば「従来型のコンビニのやり方は時代遅れになりつつある」ということに尽きるのだろうけれども、流通論的には、もっと大きな文脈で議論されるべきトピックといえるかもしれない。

元々、コンビニのビジネスモデルは、衣・食・住フルラインの品揃えを安価に取り揃えるGMS的ビジネスモデルのカウンターパートとして誕生した。最初の頃は、「スーパーよりも貧弱な品揃えを、スーパーよりも高く販売する」業態と受け取る業界関係者も多かったと聞く。しかし、「品揃えの豊かさ」、「安さ」よりも「利便性」を販売する業態としての評価が定着すると、コンビニは、日本の消費財メーカーにとって主要な販売チャネルの一画を構成するようになっていった。「24時間営業」は、その「利便性」の重要な構成要素の1つであった*2

だから、コンビニが24時間営業をやめるという事実は、一般の人が考える以上に、流通研究者にとっては衝撃的である。何かこう、大きな時代のうねりを感じる。近い将来、流通論のベーシックな教科書にも、書き換えを要する箇所がいくつか出てくるであろう。どのように書き換える必要があるのか。本当はその話を掘り下げて書きたいところであるが、本気で執筆するとなったらまとまった時間が必要になるので、今日はこのへんで勘弁していただきたい。

2つめは、割と直近の話になるが、例の新型コロナ騒ぎの影響で、マスクや消毒用アルコール、さらにはトイレットペーパーまで、小売店頭から消えたことである。中でもとくに印象深いのは、トイレットペーパーが品薄になったことである。マスクや消毒用アルコールが品薄になることそれ自体は、ウイルスの感染拡大を防ぐために、明らかに必要な商品であるからして、さほど不思議な話ではない。しかし、トイレットペーパーはかならずしもそういう商品ではない。しかも、トイレットペーパーは本当はそこまで不足していなかったにもかかわらず、消費者の間に不安が広がり、買い溜め行動が誘発されたとの議論もある。

まるで石油ショックである。トイレットペーパーを求める主婦たちが殺到し、戦場と化した小売店頭。教科書でしか見たことのなかった、あの光景を彷彿とさせるには十分である。「昔のこと」だと思っていたのに、そんな出来事が現代の日本でも生起することになるとは…

流通論の教科書的には、生産と消費の間にはいくつかの懸隔(へだたり)があって、流通システム(流通過程)の構成主体は、そうした懸隔の架橋を至上命題として活動している、と議論される。それらの懸隔は、古典的配給論ルーツの3懸隔(所有懸隔・空間懸隔・時間懸隔)に加えて、価値懸隔と情報懸隔の2つを加えた、5つの懸隔に整理される*3

これら5懸隔のうち「情報懸隔」は、流通システムの川上側が保有する情報と、川下側が保有する情報の非対称性のことを指す。たとえば、商品の品質や在庫状況に関する情報は、川上側に偏る傾向があるのに対し、商品に対する需要の多寡に関する情報は、川下側に偏る傾向がある。教科書的には、システムの構成主体(卸売業者や小売業者)が頑張ることで、上記のような情報の偏在が解消され、売買・取引の円滑化、ひいては、経済的循環の促進に結びつくことが指摘されてきた。

けれども、上述した石油ショック的兆候(トイレットペーパーの品薄化)は、新型コロナ騒動の状況化において、むしろ、システムによる情報懸隔の架橋がうまくいかなかったことを示唆している。そもそも、インターネットやスマホの普及率が飛躍的に高まり、消費者も、小売業者からのみ商品の在庫情報(供給量に関する情報も含む)を入手するような時代ではなくなった。悪質なデマも含めた、さまざまな風評がインターネット上に乱れ飛んでおり、そうした情報に消費者行動がかく乱されることも、珍しくなくなっている。

今回の騒動によって、消費者側の保有する情報チャネルが多様化していることも念頭において、流通システムの理論を再構築する必要があることを、改めて再認識させられた。その必要性自体は、多くの研究者が認識してきたのだけれども、実際にやるとなったら大仕事で、みんな、なかなか手がつけられないのである。田村正紀『流通原理』(2001年)以降、そうした試みのアップデートは提示されていないのではないかと思う*4

 

*1:実はこれでも流通研究者の端くれなのである。

*2:もちろん、コンビニのビジネスモデルを本気で説明しようと思ったら、「多頻度小口配送」とそれを可能とする物流システムの構築に触れる必要がある。ただし、その話は長くなるので今回は省略。

*3:cf. 鈴木安昭・田村正紀(1980)『商業論』有斐閣。;田村正紀(2001)『流通原理』千倉書房。

*4:ただし、最近、大学院生の頃のようには本を読めていないので、比較的近年発表された本の中にそうした試みの事例が存在する可能性も、皆無ではない。もし存在したなら、ごめんなさい。