卒論指導と小山田咲子さんのこと(2:完)

卒論指導と小山田咲子さんのこと(1) - にゃまぐち研究室

前回のエントリーの最後で触れたように、小山田咲子さんの卒業論文は「抜粋」という形で公刊されている。

論文の指導を担当した和田修先生が、小山田さんの論文の直前部に解説文を寄せている。『えいやっ!と飛び出すあの一瞬を愛してる』(以下『えいやっ!』)の中でも何度か登場する「W田先生」のことである(『えいやっ!』: p.57, pp.142-143)。

和田先生の解説文の中に、いろいろな情報が含まれている。八重山諸島に浮かぶ新城(あらぐすく)島の祭祀をとりあげた論文であること、元々の卒業論文の分量が52000字におよぶこと、小山田さんは卒論提出後も新城島を訪問し研究を続けるつもりであったことなどである。

小山田さんの卒論は、分量が多すぎて、第一文学部演劇映像専修の紀要(『演劇映像』)にその全てを収録することができなかった。和田先生は、「第六章の祭の記録のうち、準備日と祭初日を泣く泣く割愛して、祭中日・最終日の全文と歌謡の採録、第七章の考察全文を掲載することにした」(卒論抜粋: p.30)ようである。ということは、第6章に入る前に5つもの章があったことになる。これは学部生の卒業論文としては、相当の分量であったと思われる。 

小山田さんが卒論でとりあげた祭祀とは、アカマタ・クロマタのことである。小山田さんが通った新城島上地地区のほかに、西表島古見地区、小浜島石垣島宮良地区でも執りおこなわれているという。

cf. 撮影禁止の看板が埋め尽くす秘祭「アカマタ・クロマタ」。石垣島で私が見たものは... | ハフポスト

cf. アカマタ・クロマタ - Wikipedia

「仮装・覆面の来訪神」という意味では、ユネスコ(UNESCO)の無形文化遺産に登録された宮古島の「パーントゥ」と似ているかもしれない。

cf. パーントゥ - Wikipedia

が、しかし、アカマタ・クロマタ祭祀(豊年祭)は、パーントゥに比べて、詳細を秘匿しようという規範の力が強くはたらいているようである。新城島ではなく石垣島の事例ではあるが、上記のハフィントンポストの記事にも「撮影禁止」を強調する物々しい看板の写真が掲載されている。解説文を寄せた和田先生も、「秘儀の多い祭であり、それを公表することが適切なのかどうか、本人も生前に心配しており」(p.29)と補足している。ひょっとすると、このあたりの事情は、小山田さんが4年生の冬までに卒業論文を書き切らなかったことと無関係ではないのかもしれない。

小山田さんが初めて新城島を訪問したのは2001年秋(学部2年生)(p.30)。豊年祭は夏(旧暦の6月*1)に執りおこなわれるので、小山田さんは初訪問時にはアカマタ・クロマタを見ることができなかったはずである。しかし、その時、豊年祭とは別の「節祭(しち)」という祭が開催されており、いたく感激した小山田さんは、「滞在を一週間に延ばし、Nおじい宅に寄宿して、小さな島のあちこちの残る旧跡を案内され、夜毎島の伝説や様々な祭の様子を聞くうち、ますますその歴史の深みと複雑さに惹かれ、結局翌夏(引用者注:2002年)の『豊年祭』まで、四回にもわたってこの島を訪れることになっていた」(p.30)。そして、「その後も吸い寄せられるように毎夏を島で過ごし、訪ねる度また新たな魅力を発見し続けて」(p.31)いたという。

完全版の小山田論文は、祭の記録を、7月30日(準備日)、31日(初日)、8月1日(中日)、2日(最終日)の計4日間に渡って記述しているらしい。ただし、和田先生も解説しているように、『演劇映像』に所収されているのは中日と最終日だけで、準備日と初日の記述は紙幅の都合から省略されている。

読み進めながら、和田先生による小山田論文評を思い出す。

「彼女の文章は祭の生々しい鼓動をそのまま伝えるかのように細やかであるが、論文としてはいささか流麗に過ぎるところがあり、また要約ではその持ち味が伝わらない」(p.29)。

「エッセイ風の文章のなかに祭の微細な裏表を描き出したモノローグである小山田さんの文章を、部分的に切りだしては意味がないように思われた」(pp.29-30)。

祭の記録を読んでみると、上記の小山田評に同感である。この感じを言葉で説明するのは難しいので、いっそのこと引用しておこうと思う。

村落の各家々では、昨日配給されたもち米を使って握り飯作りが始まる。世通し山に篭る男たちに代わって、多くの家庭では女たちが客をもてなし、供物を用意するのである。…(中略)…

Nおじい宅では、いつのまにかオガンから帰ってきていたおじいが裏庭に火を起こし、大きな釜を用意していた。HおばあとSおばあを手伝って米を洗い、釜にあける。水を差し火を強めたら、舟漕ぎの櫂のような形をした木べらで、しばらくかき混ぜる。「始めちょろちょろ、中ぱっぱじゃないの」と言ったら「は?」と言われた。沖縄では、言わないんだろうか、これ。

…(中略)…

さっそく庭に腰掛けて、握り飯作り。手のひらサイズに切った芭蕉の葉にごま油を塗り、釜から直におこわを取ってやや大きめに握る。炊き上がったばかりのもち米は、もうもうと湯気を立てている。葉っぱごしに触っているとはいえとてもすぐには握れなくて、熱い熱いと騒ぐと、「嫁に行かれんよー」。なかなか手厳しいのだ。

油を塗っているため、掴んだ米は一息に握らないと、ばらばらに崩れてしまう。握力もないけれど学習能力も持ち合わせがない私は、不恰好な出来損ないをいくつも作り続けては笑われる。「ぎっ、ぎっ、とにぎれ!」。二人のおばあの作品は、さすがにきれい、形も大きさもそろっている。

「よっぽど今年なんか、孫が生まれたでね、娘のところへ行こうとも思ったけど、やっぱり戻ったさ」「島の女さね」「なにかしらん、わくわくするわけさあ」「私なんか、ひと月も前からずっと落ち着かんよ」「太鼓が聞こえとるよ、もうだめね。明日なんかちょっとも眠られんかったさ」「なあに、ンダ(あんた)いびきかいておったよ」。

美味しいものを作りながら聞く話は心愉しい。三人で八十個ばかりも握って作りあげた。最後の方は私もかなりきれいに仕上げられるようになった。なにごとによらずそうだが、コツを掴んだ頃に仕事は終わる。

山からは相変わらず太鼓が聞こえ続けている。

(p.30)

上記のように、小山田さん自身が感じたことについても積極的に記述されているのが、小山田論文の特徴である。小山田さんは中途半端な客観性を装おうとしない。祭の記録は、終始、このような感じで綴られていく。

最終日(8月2日)早朝には、「神送り」でアカマタとクロマタを送り出す。豊年祭のいわばクライマックスである。このクライマックスの描写もすごい。

ゆるやかに傾斜した山への道を、二神がゆっくりと上って行く。その目はじっとこちらを見つめている。朝もやに、巨大な影がかすんでゆく。小さくなってゆく。まだ見える、ああ、もう消えてしまう。行ってしまう。最後の姿。焼き付けなければ。

しかし、こみあげてくるものをおさえ切れず、お終いの一瞬は、ゆらりとにじんで消えてしまった。

…(中略)…

ゴザに座っているSおばあを起こしに行った。もうすっかり腰の曲がったおばあなのだ。おばあはぼんやりと、二神の帰っていった山の方を見ていた。「おばあ」。

日に焼けた、しわ深い頬を涙がつたっている。「行っちゃったね」「…ああ」。深いため息がひとつ出た。顔をあげ、にっこり笑って私の手を取る。「行ってしまわれたさあ」。どっこいしょ、と立ち上がる。これから校庭で、締めのマキブドゥリが始まるのだ。「寂しくなった」「そうだねえ」「私涙が出たよ」「終わってしまったね」「来年も見られるかなあ」「生きとらばどぅ見るるさ」

(p.39)

和田先生の言うとおりで、これは「論文」というよりもむしろ「エッセイ」ないし「ルポルタージュ」である。とはいえ、かえってこの書き方の方が、新城島の豊年祭とはどういうものなのかについて、うまく表現できているように思う。

これまで僕は、自分の学生たちには「学者」らしい論文を書かせようとしてきた。事例を記述するパートでは、文語調で、書き手の主観をなるべく排するように指導してきた。「エッセイ」は研究に値しないとか、そういう考えを持っているわけではない。今の学生たちには、自分の考えを筋道立てて文章化し、何かを論じる機会が少なくなっている。だから、せめて卒論の時くらい「お堅い」文章を書いてほしいのである。武道でいうところの型(カタ)を教えているイメージであろうか。1度そういうことを経験しているのとそうでないのとでは大違いではないかと思うのである。

けれども、よくよく考えると、自分の考えを筋道立てて記述できるスキルを既に修得している学生に対して、そういう指導方針を採る必然性はない。小山田さんのように、既に自由自在に文章を操ることのできる学生が僕の前に現れた場合、どうするか? 少なくともこれまでとは違った付き合い方が必要になるだろう。

ちなみに、おそらく、小山田さんはかなり意識的に「論文」の体裁から距離を置いていたのではないかと思う。

そう思う理由は『えいやっ!』の中にある。2003年7月13日(4年生の夏)の日記に、「W田先生と共に卒論指導を受けるクラスメイトたちとで飲みに行」(『えいやっ!』: p.142)った時のことが綴られている。

W田先生とお話ししていて、色々考える。これまで何となく感じてた学校の息苦しさ……研究者の狭さみたいなものへの猜疑心。ある対象に的を絞って、掘り下げ、社会にフィードバックする上でのいくつかの接点を丁寧に拾いつつ、進む……。そのものになれないのにゴールはあるのか? というのはいつも、疑問。

W田先生自身、お若いし、いわゆる先輩「学者」陣の不遜や傲慢、たくさんの壁と戦いながら続けておられる感がある。ご本人はただ愛して、もっと知りたくて、近づこうとしていらっしゃるだけでも。古典芸能には変らぬ故の魅力があり、また強い魅力を持った芸能が時間を超えて愛され受け継がれていくのだろうが、こと民俗芸能に関しては時代と土地と人との要請があって初めて本義を果たすわけだし、そういう意味ではその土地の人々(継承者)の望む形で受け継がれてゆくのが自然だろう。「研究するという立場で見るから変わらないでいてくれると単に嬉しくて便利なんですね」……そういうことなんだろう。そこを学ぶもの自身が誤解すると無意味な悲劇が起こったりもする。エチオピアの話とかひどいしな。

で、文化の進度の是非って当事者にしか問えないところがあるし、同時に第三者だからこそ見えるものもあるから、一概には言えないが、私は物事が変わってゆく速度としてベストなのは「草木の成長するスピード」だと考えてて、結局そのサイクルを無視してリズムを刻む文化も文明も破綻してゆくような気がする。植物のスピード、状況を受け入れながらゆるやかに伸び、根を張り、時には眠りつつ、たゆみなく。見ている側も、そこから何かを学ぼうとするならば、同じサイクルを見据えているべきだと思う。

「外側の人間」が知りたいと思う時には、あらゆる角度の「外側」から見つめるしかない。個人的には、好きなものにはあくまで一「ファン」というスタンスを保ちたい。近づく切り口は色々あっても、精神的には、いつも。

(『えいやっ!』: pp.143-143)

「古典芸能」と「民俗芸能」という2つのキーワードが登場するけれども、小山田さんが卒論で取り上げようとしていたアカマタ・クロマタはもちろん「民俗芸能」の方に属する。「学者」は、その存在意義を、当事者たちの「外側」から語ろうとする。そうすることで「客観的である」フリをしてきたといってもよい。小山田さんが「学者」たちのそうした態度に違和感を抱いていることがよくわかる。

とはいえ、「学者」の接近方法を用いないのだとしても、小山田さんが「外部の側」の人間であることには変りない。100%「内部」の人間になることはできない。上記の引用文からは、そうした葛藤を読み取ることができる*2

同様の葛藤は、日々僕も感じているが、感じ始めたのは比較的最近のことである。やっぱり、この葛藤は、「自分のフィールド」を持った者でなければ感じることのできないものなのだろうな。 改めて、学生たちに「自分のフィールド」を持たせてあげることの重要性を実感した次第である。また、20歳そこそこで、教員の助けを借りるでもなく自力で「自分のフィールド」に出会った小山田さんの嗅覚・センスには、脱帽するしかない。

以上のように、『えいやっ!』にしても卒論にしても、小山田さんと同い年だからこそ、「同じ年齢の頃、自分は何をしていたか? 何ができ、何ができなかったか?」ということを多分に意識しながら読んだ。また、それだけでなく、ちょうど卒論指導をしている時だったからこそ、「現在の平均的な学生と比べて小山田さんはどうか?」ということも多分に意識しながら読んだ。この時期、このタイミングで小山田さんの書いたものを手に取ったことは、単なる偶然ではないような気がするのである。

最後に、こんなに才能に溢れた人が、わずか24歳で命を落とさなければならなかったことを、悲しく、残念に思う。どうしても月並みな言葉になってしまうけれども、僕たちは小山田さんの分まで生きなくてはならない、と思った。

*1:小山田さんが卒論を執筆した2004年度には7月31日から8月2日の朝にかけて実施された(p.31)。

*2:オーソドックスな社会科学の研究は、事例の記述に際して観察者の主観を極力排する。ただし、観察者の感じたことを積極的に記述するスタイルの研究方法も、無くはない。社会集団の内部に入り込み、外からでは容易に理解することのできない、共有された価値観・規範などを明らかにするエスノグラフィー、あるいは、観察者自らが実践に加わるアクション・リサーチなどを例として挙げることができる。そうした研究方法論を採用した場合に、小山田さん的な論文の書き方も、「エッセイ」ではなく「研究」の範疇に含めて語ることもできるかもしれない。が、この話についてはまた別の機会に論じることにしたい。