石垣島・西表島・竹富島の思い出(4: 完)

石垣島・西表島・竹富島の思い出(1) - にゃまぐち研究室

石垣島・西表島・竹富島の思い出(2) - にゃまぐち研究室

石垣島・西表島・竹富島の思い出(3):MIRAB経済試論 - にゃまぐち研究室

 

八重山ネタで3つもエントリーをあげてしまった。われながらよくもまあこんなに書けたものである。

本当は前回のエントリーで終わりにしようと思っていたのだが、仕事柄、小売施設の写真を多めに撮影してきた。せっかくなのでその写真もアップして、簡単にコメントも付加しておきたい。また、ついでといっては何だが、+αのオマケ写真群もアップしておきたい。 

いちおう流通研究者の端くれであるため、小売施設の見学も、旅行の楽しみの内の1つである。妻も「お土産になるフルーツがあるかどうかを見たい」というので、まずは石垣市中心部の直売所「ゆらてぃく市場」を訪問した。

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八重山産の野菜。

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モヤシのつめ放題は、愛媛ではちょっと見たことない。

 

八重山産の米。

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八重山産の加工品。 

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その一方で「仕入れ」商品のウェイトも相当程度高かった。

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 ゆらてぃく市場は直売所だから地元産の野菜もかなりな程度並んでいたけれども、スーパーに行くとさらに地元産の野菜の割合は低くなる(後述)。

 

今度は石垣市中心部のミニスーパー。やっぱり野菜は県外産の方がむしろ多い。魚介類の方が地元産率高し。

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惣菜文化・弁当文化健在。

 

今度は上記の店よりかは大きめの地元スーパー。

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これはスターフルーツ? 台湾でご馳走してもらった記憶がある。そういえばこのあたりは緯度的には台北や桃園*1よりも南なんだな…

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普段使いの野菜は、やっぱり基本的には県外産。

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八重山そばはどの店に行っても売場で存在感を放っていた。

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沖縄には、惣菜文化だけでなく、缶詰文化もある。

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スパム缶の多さはやはり圧巻。

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防虫グッズの品揃えも圧巻。 

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ところで、各種小売施設を見る限り、沖縄(八重山?)では「地産地消」とかそういうキーワードをあまり見かけない。

ただ、旅行者である僕たちのアンテナにはひっかからなかっただけで、「地元産」とか「オーガニック」とかにこだわる人たち用の店はどこかに存在したのかもしれない。今度訪問する時にはそういう店を探してみたい。 

島ぞうり石垣島西表島ともに至るところで売られていた。値段から考えてmade in Japanではないと思うが、どこ産なんでしょうね? カラフルでかわいいので、僕も購入してみた。

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謎のご当地ドリンクに出会うとテンションがあがる。

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印象に残っていることの1つとして、売店スクガラスを買ったら、地元の新聞でくるんでくれたこと。お店の人は「ご自宅用」のつもりなんだろうけれども、これはお土産物用のラッピングとしてもアリだと思う。
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もう1つは、空港の売店でお惣菜を買って機内に持ち込むことができた点。今回も含めて4本におよぶエントリーの中で、沖縄(八重山?)には惣菜文化があるようだ、とは、何度か指摘してきたけれども、通常サイズの惣菜は、ビール1~2杯くらいのアテとしては内容量がちと多い。けれども、空港の売店で売られていたお惣菜は、アテにちょうどいい分量になっていたし、複数種類の練り物をアソートしてくれていた。これを最初に考えた人は偉いと思う。

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最後に、漁具の再利用事例コレクション。

実は、昨年度卒業したゼミ生たちと島に関する研究を進めたことがあり、2~3年前から、愛媛県内の島を訪問する機会が増えている。それ以来、いつも面白く思っているのは、漁具の再利用方法である。今回の旅行でも、おもしろいものをたくさんみつけた。

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*1:ここ数年ほぼ毎年訪れているのが桃園なのである。

石垣島・西表島・竹富島の思い出(3):MIRAB経済試論

石垣島・西表島・竹富島の思い出(1) - にゃまぐち研究室

石垣島・西表島・竹富島の思い出(2) - にゃまぐち研究室

ここまで2回にわたって、八重山諸島石垣島西表島・武富島で見たもの・感じたものを書き綴ってきた。語り足りないことをもう1エントリーだけ。

僕が物心ついてから初めて島らしい島を訪問したのは*1、今の仕事に就いた2012年のことで、その時は、長崎県五島列島福江島と、そのサテライトのような島の1つである黄島(おうしま)にお邪魔した。

その後、昨年卒業したゼミ生たちが2回生の時に「島の研究をしたい」というので、勉強も兼ねて愛媛県下の島をいくつか周遊し*2、結局、宇和島の九島に通うことになった。

その後、大三島に何度か通っていた時期もあるし、昨年は、新2回生を連れてやはりしまなみ海道の大島や伯方島、さらには八幡浜大島を訪問した。

プライベートの話をさせてもらえば、妻(当時は妻ではなかったが…)と初めて一緒に遠出したのは、しまなみ海道の大島であった。

しかし、八重山諸島は、僕が訪問したことのある、上記のような島々と比べても、離島性が格段に高いように思う。すくなくとも愛媛県内の島で「離島」を感じることはそうそうないし*3福江島と黄島はイイ線行っていたが、それでもやはり、沖縄本島よりもはるか南西に浮かぶ八重山諸島の島々の離島性には比べるべくもない。

今回の八重山行きは、初の本格的離島体験だったといってよい。

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島の研究をしていたゼミ生たちと、開発経済学の古典の1つである Bertram and Watters (1985) 論文を読んだことがある。

  • Bertram and Watters (1985) "The MIRAB Economy in South Pacific Microstates," Pacific Viewpoint, 26(3): pp.497-519.

 いわゆる「MIRAB経済」に関する有名な論文である。「MIRAB経済」とはMigration(お金を稼ぎやすい国への出稼ぎ移住), Remittances(出稼ぎしている親族からの送金), Aid(先進国からの経済援助), Bureaucracy(官僚制)の頭文字をとったもので、産業化の進んでいない島嶼国の経済は上記の4つでようやく回っている、という話。

たぶん以下のようなイメージになる。

自分の国には産業がない。だから国民はお金を稼げない。自国に留まりたければ公務員になるしかない。それが無理なら、より豊かな国に出稼ぎに行く。出稼ぎ先から、本家にお金を送金する。

産業化が進んでいないので、先進諸国からの経済援助がある。ただし、多くの場合、その経済援助は国内産業を育成するためというよりも、公共事業的に使われてしまう。また、民間企業が育成されていないので、公共事業も直営方式で実施せざるをえない。結果として、官僚組織は肥大化していく。

ありそうですね、そんな国。

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ちなみに、Bertram and Watters (1985) は国家のレベルで「MIRAB経済」を論じている。あ、いや、厳密に言えば、Bertram and Watters の分析レベルは超国家レベルと言えるかもしれない。産業化の進んでいない島嶼国の経済について理解するためには、一国自足的な経済モデルが有効でない、そうした国の経済を分析するにあたっては、出稼ぎ先からの送金や、先進国からの経済援助も考慮しなくてはならないからである、というのが彼らの問題意識である。Bertram and Watters (1985) はそういうスケール感の論文である。

あの時は、学生たちと、日本国内の島嶼研究を進める際のヒントになるかな、と思ってこの論文を読んだけれども、自分たちの研究に援用するのであれば、元々国家レベルで展開されていた議論を地方自治体レベル、あるいは個別の島レベルに落とし込むための論点整理をする必要があった。結論から言うと、この作業は学部生にとってはちょっと荷が重かったので、その後、論点をそれ以上深めることはしなかった。

パッと思いつくだけでも、分析レベルには以下のようなものが考えられる。

  1. 国家のレベル=Bertram and Watters (1985) の分析レベル
  2. 都道府県レベル
  3. 地方自治体レベル=学生たちと考えたかった分析レベル(1)
  4. 個別の島レベル=学生たちと考えたかった分析レベル(2)

ここで考えたいのは、日本の離島(個別の島レベル)でも、「MIRAB経済」の考え方はあてはまるのか、ということである。

そこで Bertram and Watters (1985) におけるMIRABを以下のように読み替えてみる。

  • Migration(お金を稼ぎやすい地域への移住)
  • Remittances(他所の地域に移住した親族からの送金)
  • Aid(国・都道府県・自治体からの交付金補助金
  • Bureaucracy(公務員の仕事や公共事業)

Migration(移住)の観点からいえば、離島には産業がないため、現金収入を求めて島外に移住する人が多い。いやかつては多かったというべきか…。近年は、逆に、「島の暮らし」にあこがれて、大都市部から離島に移住するケースも増えていて、この矢印逆向きの「移住」についてどう考えるかについては解釈の余地がありそうである。

Aid(援助)の観点からいえば、島には政府や行政からのさまざまなお金が入っている。離島を抱える基礎自治体の多くにおいては、歳入に占める地方交付金の割合がかなり大きいであろう。また、基礎自治体から離島に地域づくりのためのお金を付けるということもよくある。

Bureaucracy(官僚組織)の観点からいえば、めぼしい産業のない離島での有力な就職先はやはり役所である、といえる。離島出身者が「島に戻りたくても福祉系か公務員以外の仕事がない」とボヤいているのを聞いたことがある(離島に限らず田舎ではどこでもそうである)。

よくよく考えると、福祉系の仕事も、おおもとは行政のお金で成り立っているわけだから、Bureaucracyと関係がある(Aidとして理解すべきかもしれないが…)。公共事業も然り。

問題はRemittances(送金)である。島外の、もしくは島外に移住した親族が、移住先で稼いだお金を、島にある本家(?)に送金するということはあるだろうか? 現代の日本においては、あまり聞いたことのない話ではある。

ただし、離島暮らしのじいちゃん・ばあちゃんには年金がある。それがRemittancesの代わりに機能している可能性はある。年金の出元は、Bureaucracyとして考えることもできるし、Aidとして考えることもできるかもしれない。

このように、「MIRAB経済」の枠組みは、元々の議論との分析レベルの違いに気を付けさえすれば、離島(個別の島レベル)の経済の成り立ちを検討する際にも示唆を与えてくれる。

たとえば…

役所の出張所はMIRAB的である。特養はMIRAB的である。介護タクシーもMIRAB的である。年金暮らしのヒマそうなじいちゃんもMIRAB的である。また、至るところにある生コンの基地もMIRAB的である(公共事業が「お得意様」的な産業)。

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ところで、Bertram and Watters (1985) 論文には、「サブシステンス経済の豊かさ(Subsistence Affluence)」という論点にも言及がある。

サブシステンス経済とは、市場(貨幣経済)に頼らない経済のあり方である。現金収入がなくとも、農や漁によって食べていけている地域があるとすれば、その地域のサブシステンス経済は活発である。おすそ分け文化が発達しているならば、やはりその地域のサブシステンス経済は活発といえる。実際、Bertram and Watters (1985) においては、島嶼国のMIRAB経済を補完するサブシステンス経済の影響についても、示唆的な議論が掲載されている。

今回の八重山行きでも、サブシステンス経済を垣間見る機会は一再ならずあった。

民宿のおっちゃんは自分で水揚げした魚介類の恩恵を多分に受けていた。またある島民は、「仕事が忙しくない時には釣りをして、その日の晩御飯のおかずを調達することもある」と話してくれたり…

農業者には出会わなかったが、新規就農している移住者もそれなりにいるのではないかと思われる。

サブシステンス経済は、見方によれば相当に贅沢な経済である。20世紀は「産業化こそ正義」的価値観が全盛であった。そうした価値観のもとで、サブシステンス経済は日の目を見なかったが、21世紀的観点に立った時、「周回遅れのトップ」と理解することができるかもしれない。

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そもそも論的な話になるが、原始、離島であろうが陸地であろうがどこでもサブシステンス経済だった。それが徐々に貨幣経済化・産業化の波にのまれて、人々は現代的生活様式を身にまとうようになった。日本経済史的視点で説明すれば、江戸時代に貨幣経済化の波が農村にも押し寄せ、産業革命後、より一層の産業化が進展したとみてよい。

産業化が進むと、貨幣経済化ないし市場経済化が進む。社会的分業が進む。多くの人間が、生活のために必要な物資を、海や山から直接採集できなくなる。そうした能力(生産手段)を奪われるのである(マルクス的にいえば「労働者」の誕生)。一度、生産手段を放棄してしまうと、それを再び獲得することは難しい。だから、一度、産業化の途を歩み始めた国家や地域は、サブシステンス経済にはなかなか戻れない。産業化をつき進むしか手段がなくなる(もっともサブシステンス経済はしぶとく残存するが…)

とはいえ、地理的隔絶性、資源の不足などの要因によって、産業化がうまく進展しない国・地域もある。それが、Bertram and Watters (1985) の言うところの「MIRAB国家」であり、日本国内個別地域のスケールで語るならば離島ということになる。そういう場所では、MIRAB経済が発達しがちである。

ただし、そうはいっても、MIRAB経済も、そしておそらく産業化の経済も、残存しているサブシステンス経済との間に補完関係を成立させながら、回っている。

 ところで、離島で暮らすというのはどういうことか。今回の八重山行きで出会った人々の話から類推する限り、大きく分けると以下の4つの暮らし方に大別されるように思う。

  1. 農漁業
  2. 民間企業への就職(土木系・介護福祉系・観光系多し)
  3. 自分で起業
  4. 公務員

 農水産物を販売して貨幣を獲得するのではなく、自給自足的なスタンスでのぞむ限りにおいて、1.はサブシステンス経済の担い手になる。

また、農水産物をじゃんじゃん販売して現金収入を獲得する企業的農漁業であれば、1.は産業化経済の担い手ということになる。

2.の暮らし方をする人は、労働の対価として貨幣を獲得しようというものなので、基本的には産業化経済の担い手になるだろう。このセクターの雇用が少ないと、MIRAB経済のウェイトが高まっていくが、八重山諸島の場合、ホテルや観光関連施設などのように、観光系の雇用がそれなりにある。だから、八重山諸島の経済が、オーソドックスなMIRAB経済論が想定する程に他律的かというと、かならずしもそうとは言えないかもしれない。

ちなみに、民間企業に就職する場合でも、土木系や介護福祉系の企業であったとすれば、MIRAB経済とも密接な関係を持っていることになる。

3.の暮らし方をする人は、基本的には産業化経済の担い手ということいなるだろう。

ただし、自営業者の中には、時間に融通の利く働き方をしている人も多い。そうした人たちは仕事の合間に漁や釣りに出て、晩御飯のおかずを調達してくることもできる。余ったらお隣りさんにおすそわけをすることもあるだろう。海・川・山の資源に直接向き合うことのできる人たちは、サブシステンス経済を部分的に担っていることになる。

4.の公務員はMIRAB経済の担い手といえる。とはいえ、地元では高級取りなので、稼いだお金を地域の中でそれなりに使ってくれることだろう。そういう意味では、産業化経済の担い手と見ることもできるかもしれない。

以上のように、八重山諸島では(でも?)、サブシステンスと産業化とMIRABの論理が交錯していた。

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ちなみに、サブシステンス・産業化・MIRABを貨幣経済化との兼ね合いから整理すると、以下のような分け方になる。

 

【非貨幣媒介的】

  • サブシステンス経済

 

【貨幣媒介的】

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以上、ふとしたことからMIRAB経済論を思い出し、八重山で見てきたもの・聞いてきたものも念頭におきながら、日本の島嶼を分析する際に念頭においておくべきこと、ということで、整理を試みてみた。

もっとも、上記の考察は、思いついた順序で考察していったもので、まだなお粗雑かつ煩雑である。もっとシンプルにソフィスティケートする余地は残されていると思う。

あるいは、MIRABではなくても、日本の島の経済(とくに資金の流れ)を考えるために、もっともっと適合的な枠組みがどこかにあるかもしれない。

稚拙な考察で恥ずかしいけれども、議論を深めていくための「たたき台」になる可能性はあると思うので、そのまま公開の場に掲載しておきたいと思う。

*1:正確には、小学生低学年の頃に友人の家族に引率してもらって新島を訪問したことがある。ただし、どういう場所だったかはほとんど覚えていない。

*2:岡村島、弓削島、興居島、中島など

*3:中島の裏手の怒和島津和地島二神島あたりまで、あるいは宇和海の日振島あたりまで行くと、勝手が違ってくるのかもしれないが…

石垣島・西表島・竹富島の思い出(2)

石垣島・西表島・竹富島の思い出(1) - にゃまぐち研究室

前回からのつづき。

西表島には2泊して、3日目の朝に石垣島に戻った。その途中、進行方向右手に、岩の小島と、その奥に、ボートが停まっていたり、パラソルが立っているように見える一画が目に入った。
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どうやら浜島という島らしい。

cf. 幻の島(浜島)|海上に浮かぶビーチ! - たびらい沖縄 アクティビティ

cf. 浜島 (沖縄県) - Wikipedia

いつか行ってみたいが、リア充が多そうな点は懸念である。

 

石垣島の中心商店街。

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鮮魚店がおもしろかった。

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刺身にしても揚げ物にしても、そのあとのランチに差しさわりがあるかもしれないと思い、チャレンジするのをためらった。

それにしても沖縄は惣菜文化である。個人店舗にもスーパーにも、惣菜・弁当が潤沢に揃えられている。調理済みのものが好まれる理由は何だろう?

 

商店街の中ほどにある公設市場。建物の中は、地元の人向けのお店が多かった印象(ただし観光客に買ってもらえるようなものも一部取り扱ったりしてはいる)。外側の商店街に面したブースは、価格設定的にも接客的にも観光客向けな印象。

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また、商店街にはいかにもな観光客向けのお土産物屋もあった。これは地元資本の店だろうか? 外部資本の店だろうか?

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ともあれ、商店街の中で石垣島の生活文化を感じさせてくれるような店が意外と少なかった点は残念。強いていうなら、鮮魚店と、公設市場の中くらいかな? 

フサキビーチに向かう途中でフラっと立ち寄った「うさぎ堂」という古本屋兼カフェが素敵だった。柳井町の浮雲書店の武井さんを連れて行きたい。

https://ishigakijima-usagidou.business.site/

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ドラゴンフルーツのミックスジュースを注文。なかなかどぎつい色でしたが、当然ながら着色料なんて入っていません(笑)

 

御神埼(おがんさき)の灯台。ここは石垣島でも1、2を争う夕陽鑑賞スポット。

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夕陽は鳩間島の左手に沈んでいった。水平線のかなたに沈んでいく夕陽を、こんなにじっくりと眺めたのは、久しぶり? いや初めてだったかもしれない。

 

御神埼への行き帰りの道ではパイナップル(?)畑のスプリンクラーの水圧が強すぎる問題に直面。この水もダムの賜物なのだろう。

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民宿に3泊してお金を節約したので、最後の1泊だけはリゾートホテルを使ってみることにした。

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リゾートホテルの客室内はさすがにゆったり広々。空調も、浴室も、ベッドも、全て快適。とはいえ、民宿3泊分よりも高いお金を払っているので、「そうでなくちゃ困る」という気もする。

朝食の写真を撮り忘れた。もっとも、結論的には、リゾートホテルの朝食より民宿の朝食の方が性に合っていたかな…。やっぱり、旅先での食事は、地元の人とおしゃべりしながら食べるとおいしくなるのである。

 

さて、いよいよ5日目。八重山旅行も最終日である。最終日午前中は、「弾丸」になってしまうけれども、竹富島に渡り、レンタサイクルで小一時間ほど島内を散策した。

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さすがは重伝建の島。家々のあり方を規定するコードがはたらいていることは一目瞭然だった。欲を言えば、島民の方とももう少しじっくりとおしゃべりしたかったな。島内中心部の街路は、観光客ばかりが闊歩しているので、島民の方と出会う場所があんまりないのである。強いて言うならば、閉鎖されている「なごみの塔」のはす向かいにある「あかやま展望台」のじいちゃんと、ちょっとだけ話したくらい。

cf. 竹富島へ閉鎖された「なごみの塔」を確認しに行ったら、代わりに「あかやま展望台」ができてた! - デジカメ買い物思考

 

4泊5日間を通して、authenticな八重山と、観光地化された八重山の両方を見た気がする。芸(学業)の肥やしとさせていただきたい。

石垣島・西表島・竹富島の思い出(1)

卒論指導と小山田咲子さんのこと(1) - にゃまぐち研究室

卒論指導と小山田咲子さんのこと(2:完) - にゃまぐち研究室

直近2回にわたって小山田咲子さんの著書や卒業論文について話題にした。とくに彼女の卒業論文について書こうとなると、必然的に八重山諸島の新城(あらぐすく)島の話題になる。あれこれ書いているうちに、昨年の9月に八重山諸島を訪問した時のことを思い出した(新城島には行ってませんが…)。

せっかくなので、印象に残ったモノ・コト、八重山で考えたコトなどをメモしておきたい。

1日目は、石垣島の伊原間(いばるま)というところの民宿に泊まった(下の地図中の赤丸のあたり)。

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伊原間地区は、東側の海と西側の海に挟まれた地峡のようなところにある。それが飛行機の中からもよくわかった。

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ちなみに、あとで民宿のおっちゃんに聞いたのだが、伊原間のあたりのことを、古い地名で「フナクヤ(舟越)」とも呼ぶらしい。地峡なので、往時は、東の海から西の海へ、あるいはその逆で、西の海から東の海へ、船を担いで移動することがよくあったという。

日本全国、いたるところに「船越」という地名があるけれども、「フナクヤ」もまったく同じ趣旨で定着した地名であると思われる。愛媛にも、たとえば興居島や由良半島には船越という地名がある。どちらも地峡のようになっているところである。

もっとも、これまで僕は、船を担いで反対側の海に移動する理由は、ただ単に距離を節約したいだけだと思っていた。もちろんその解釈で間違ってはいないのだが、どうやらもう少し深い理由もあるらしい。というのも、船を担いで反対側の海に移動するのは、安定的に漁に出たいという思惑と大いに関わっているのである。

伊原間が豊漁地と言われたのは、天候に関わりなくほぼ毎日漁ができたからだ。それは、地形が半島の付け根にあって、東の浜が荒れると、西の浜に舟を移動してそこで漁をすることができたから。

11歳で移住、4世代50人に/石垣島の平良正一さん(87歳) | 宮古毎日新聞社ホームページ -宮古島の最新ニュースが満載!-

 

話は前後するが、飛行機は白保の海の上を旋回しながら着陸態勢に入っていった。現在の石垣空港を建設するにあたって、この白保の海を潰してしまう計画もあったらしい。この海が残ってよかったなと思う一方で、結局のところ現在の石垣空港を建設するために潰された農地や畑もある。そういうことを考えると複雑な気持ちになる。

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また、上の写真からわかるのは、サンゴ礁が天然の防波堤になっていることである。これもやはり泊まった民宿のおっちゃんの話だが、仮に外海がそこそこ荒れていたとしても、サンゴ礁の内側に入れば、大抵の場合、海はおだやかであるという。

 

民宿では、他の宿泊客と一緒に夕食をとった。結婚歴が1年先輩の夫婦に、近々夫婦になるカップルと一緒に肉をつついた。奥の方にいるのは宿泊客でもないけど遊びに来ているS浦工大生。毎年、遊びにくるらしい。自由だな~。このワヤ感が楽しい。

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民宿のおっちゃんおすすめの焼酎を飲ましてもらう。黒糖的な甘みとコクがおいしい。ただし、入っているのはチャーガとかいう謎のシベリア食材とはちみつ。

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どこでつくっているのか? と思ってラベルを見てみると、石垣島産ではなく九州産だった…

cf. チャーガ酒 「黒宝霧島」 | 霧島酒造株式会社

 「石垣島産ならお土産にしたのにな~」と一瞬がっかりするも、いつの間にか「島の人たちの普段飲みのお酒は地元産であってほしい」という価値観を地元の人に押し付けようとしている自分に気付いたりもする。こういう目線って、意外と「中央目線」ないし「東京目線」なので気を付けなくちゃいけないなとも思う。地元の海人に愛飲されている「黒宝霧島」は仮に島産でなかったとしても十分にauthenticだと思った。

3年くらい前だったと思うが、宇和島の九島の方々の横に着かせてもらって、池袋のサンシャインビルで年に1回開催される「アイランダー*1に参加した時のことを思い出した。手ぶらで参加するのもどうか…ということで、九島のお母さま方は柑橘のピールとみがらしを持って行って販売した。僕も接客を手伝ったが、東京のお客さんたちからは、原材料まで含めて全て島産かどうかを確認するような質問を多く頂戴した。それに対して、島のお母さんは屈託なく「カラシは宇和島のスーパーまで買いに行くんよ」と答える(島のお母さま方のこういう素直さが好きだ!)。これはちょっとしたディスコミュニケーションだな、と思った記憶がある。

その夜は、民宿のおっちゃんの息子さんや、周辺の若い移住者なども酒盛りに加わり、遅くまでダベった。

その翌朝の朝食がこれまた重すぎず軽すぎずちょうどよかった。右下の豆腐汁的なものがとくにおいしかった。

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2日目は、まず、竹富町役場を見に行った。竹富町は、西表島小浜島竹富島をはじめとしたいくつもの島から構成されているが、町役場それ自体は石垣島にある。つまり、竹富町の役場は町内ではなく石垣市に立地しているのである。

竹富町役場 - Wikipedia

 これがまたなかなか古い。

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Wikipediaの情報が正しいとすれば、「現在の庁舎は、1969年(昭和44年)に建てられた平屋のボウリング場を2階建てに改築して、1977年(昭和52年)9月1日に移転したもの」*2らしい。僕より12歳も年上である。49歳くらいかな?

ちなみに竹富町役場は庁舎の移転問題を抱えている。竹富町役場は下の地図の赤点の場所にある。西表島波照間島小浜島、黒島、竹富島などに暮らす住民は、町役場に用事がある場合には船で石垣島まで渡航する必要がある。もちろん、西表島波照間島には町役場の出張所があるし、小浜島、黒島、竹富島の住民も、戸籍謄本や住民票の写しくらいであれば、わざわざ石垣島まで赴かなくても手配することができるようである。とはいえ、本庁が石垣島にあるのはやはり不便。

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また、問題の本質はそこではなく、本庁に努める職員の多くが石垣島民(石垣市民)であることだと、西表島のある島民は僕に教えてくれた。言い方は悪いが、竹富町は、町民でもない職員に、地域づくりや公共事業のあり方を決められている。「石垣島に住んでいる石垣市民の職員は、何かにつけ動きが遅い。そもそも西表島がどうなろうと知ったことじゃないという職員が多い」と不満を口にしていた。

そういうわけで、竹富町の中でも最大の人口を誇る西表島の島民は、長年、町役場の移転を要求してきた。2015年には庁舎移転の是非を問う住民投票が実施され*3、現在は、西表島の大原地区(上の地図の青丸の地点)に庁舎を移転する話が進んでいる途中ではある。

もっとも、現在の本庁舎は、古くてレトロで、なかなか貴重な気もする。竹富町役場がどこかに移転しようとも、この建物は何らかの用途に再活用できないか、潰してしまうとしたら勿体なくないか、と思ってしまった。とはいえ、これは無責任な旅行者だからこそ言えることかもしれない。

 この日は夕方の便で西表島に渡ることにし、それまでの間、石垣島内をレンタカーで散策することにした。

川平にソーキそばのおいしいお店があるとのことなので、ブランチ気味に食べに行くことにした。食後に川平湾の畔を散策する。川平湾は曇天でも綺麗だった。

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川平湾の近くの食料品店でおばあと話す。「ドラゴンフルーツを探している」と言ったら、「冷凍ならあるけど、食べて行くかい?」と嬉しいご提案。シークアーサーの汁を塗って食べるのがおすすめらしい。

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石垣島は内陸部にも「絵になる」場所がけっこうある。サトウキビ畑はその内の1つ。ただし、いい撮影ポイントを見つけるためには、レンタカーと「時間の余裕」が必要だと思う。

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一般論として、島に暮らす人びとは慢性的な水不足に苦しんできた。八重山においても、森林の抱負な西表島を除くと、どの島でも水は不足しがちであったという。石垣島最大のダムである底原(そこばる)ダムの横を通りかかったので、休憩も兼ねて見学。後述するように、サトウキビ畑にスプリンクラーで水を撒くことができるようになったのも、こうした意味での灌漑設備が整ったからこそである。

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西表島行きの船内。本当は、島の北側にある上原港(下の地図の黒丸)行きの船に乗る予定だったのだけれども、この日は海が荒れていて、大原港(下の地図の青丸)行きしか出航しなかった。

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思えば、この時が前回のエントリーで話題にした新城島上地島:上の地図の赤丸)に最も接近したタイミングでもあった。左側に乗船しておけばよかった…

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先述したように、海が時化ている時でも、サンゴ礁より内側に入ると海は比較的穏やかになる。ただし、そのサンゴ礁を乗り越えるところが、船長の腕の見せどころらしい。おそらく、船長の腕をもってしてもサンゴ礁を安全に越えられるかわからない程時化た時に、欠航になるのだと思われる。

大原港から上原港までは代替運行のバスが走ることになったので、僕たちもそれに載せてもらった。民宿に電話をすると、おばちゃんが上原港まで車で迎えにきてくれることになった。 

1泊2食付きで2泊ということで予約をとっておいたつもりではあったが、西表島でお世話になった民宿のおばちゃんは、僕たちの夕食をつくってくれていなかった。単なる手違いということも考えられるし、石垣島から上原港に向かう船が欠航になりそうだったので、「来るか来ないかわからない」ということで、そもそも食材を準備していなかった可能性も考えられる。ウチのオカンが民宿をやるとこういうことになりそう…。リゾートホテルにそれをやられると腹が立つけれども、オカンだと思うと許せてしまう不思議。

とりあえず、西表1日目の夕食は、宿から徒歩で行けるところにある居酒屋でいただくことになった。その道中が生き物の宝庫でおもしろかった。

 

カニ

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八重山のホタルは飛ばない。全然かわいくない!(そんなところが逆にかわいい)

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あと、写真を掲載することは自粛するがゴキブリも目撃した。

うっかり挟まれると指を飛ばされるというヤシガニ。宿に帰ってからおばちゃんに見せたら、「食べるとおいしいのよ~」とのこと。

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沖縄から帰ってきた人によく、「沖縄の魚はしまりがない」と聞いたことがあった。今回の旅行で食べた限りではあるけれども、ことお刺身で食す場合であれば、上記の指摘は一理あるような気がした。けれども、沖縄の魚には、気のせいかもしれないけれども、程よい甘みやコクがある。お寿司のネタとしては優秀な魚だと思った。

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感激したのは豆腐の上に載っているスクガラスの多さ。内地の沖縄料理屋さんだったら、このサイズの豆腐の上に載せるスクガラスはせいぜい3匹くらいだろう。

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1番感激したのはアダンの天ぷらである。石垣島にせよ西表島にしても、アダンは至るところに群生している。ほとんど雑草に近いレベルの植物である。それがあら不思議。白身魚の代用品としてベジ食に使うこともできるくらいに食べごたえがあった。

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ちなみにこれがアダンである。ススキ以上、アロエ未満。

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今回泊まった民宿は、ネット上の口コミをみるとかなり悪口も書かれていて、妻なんかは事前にそれを見てしまって心配していた。けれども、泊まってみると、まあたしかに設備は古かったけれども許容範囲内だし、おばちゃんはやさしいし、窓からの眺めはいいしで、お値段(の安さ)のことも考えると結論的には大満足。

民宿からビーチまで30秒というのがいい。ビーチにもほとんど人がおらず、いるにしてもこの民宿の宿泊客くらい。のんびりできるし、カメラを砂浜に置きっぱなしにしても大丈夫。子どもができたら、リゾートホテルのプライベートビーチよりも、こういうところの方が気楽でいいなと思った。

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民宿のご飯もおいしかった。全てが全て地元産の食材ではないだろうけど、「普段こういうものを食べているんだろうな」という気がした。これもまたauthenticだと思う。

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西表島2日目のアクティビティは、まずはカヌー。浦内川の支流のウタラ川を遡った。マングローブの森の中をゆったりと遡り、気持ちよかった。

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遡行途中、かつてウタラ炭坑が健在であった時期につくられた橋の下をくぐり抜けた。ずいぶん古い橋だけれども、いったい何年くらい前のものなのだろう?

宇多良炭坑 - Wikipedia

ウタラ川の遡行コースは、初心者にも程よい距離感。これより遡行時間が長かったら、翌日は腕が筋肉痛になってしまったかもしれない。 

1時間程で浦内川まで帰ってきた。浦内川に出ると、海から逆流してくる波もあるし、遊覧船も通るし、風もあるしで、初心者にはちとキツい。なかなか進まなかった。

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浦内橋より浦内川上流を臨む。

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最近の流行りは、SUP(スタンドアップパドルボード)のようである。上の写真に写っているこのグループもウタラ川を軽めに遡行して楽しんでいた。

ちなみに浦内橋の袂から軍艦岩まで遊覧船が出ている。カンピレーの滝まで行きたかったら、この遊覧船に乗るのがフツーである。今回は時間がなかったのであきらめたが、次回はカンピレーの滝までのトレッキングをぜひやってみたい。

また、カンピレーの滝からさらに奥に入り、島の反対側に抜ける道もあるようである。このルートは、歩行距離が20km弱になるスーパー健脚ルートのようである。ただし、要入山届け、単独行禁止。

cf. 西表島横断(ジャングルの中を25km) - 2012年03月11日 [登山・山行記録] - ヤマレコ

8年くらい前に大阪府のチャレンジ登山(36km)を完歩したことはあるので、ちゃんとトレーニングをしておけば、行けるような気がする。けど、もうアラフォーなので、自分の体力への過信は禁物かな?

 

「ネコ注意」

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ベタに由布島にも渡ってみた。

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由布島に到着するとあれよあれよという間に首に花飾りをかけられ、あんずちゃんの前で記念写真を撮らされたが、その写真が欲しければ有料で購入してくださいということだし、自分たちのカメラで記念写真を撮ることはできない。ちょっと一昔前の商売のやり方だなと思った。植物園を開園した経緯を調べると、ストーリー的にはかなり共感できるんだけどなぁ…*4

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園内のお土産物屋や食堂からもマスツーリズム時代の匂いがぷんぷんしたけれども、由布島茶屋だけは今時な感じがした。ここで小浜島を眺めながら30分くらいはのんびりしていた。風も抜けて気持ち良かった。

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帰り際に水牛たちの休憩所を覗く。寝ている水牛に萌える。

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おっちゃんの弾き語る「十九の春」もこれはこれでなかなか…

てっきり相当のベテランかと思ったけれども、この仕事に就いてからまだ数年らしい。仕事をリタイアされてから始めたということなのかな?

それはそうと、てっきり由布島に渡りたかったら水牛車以外の選択肢はないものだとばかり思っていたが、浅瀬なので徒歩で渡るという手もあるらしい。徒歩で渡るのもおもしろそうである。

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(後半につづく)

*1:日本全国の島嶼部で島おこしに取り組んでいる人々が一同に介し、島の魅力をプロモーションするイベント。cf. 全国の島々が集まる祭典 アイランダー2018

*2:cf. 竹富町役場 - Wikipedia

*3:cf. 「宿借り行政」に終止符か | 八重山毎日新聞社

*4:cf. 由布島 | 亜熱帯植物楽園 | 会社概要

卒論指導と小山田咲子さんのこと(2:完)

卒論指導と小山田咲子さんのこと(1) - にゃまぐち研究室

前回のエントリーの最後で触れたように、小山田咲子さんの卒業論文は「抜粋」という形で公刊されている。

論文の指導を担当した和田修先生が、小山田さんの論文の直前部に解説文を寄せている。『えいやっ!と飛び出すあの一瞬を愛してる』(以下『えいやっ!』)の中でも何度か登場する「W田先生」のことである(『えいやっ!』: p.57, pp.142-143)。

和田先生の解説文の中に、いろいろな情報が含まれている。八重山諸島に浮かぶ新城(あらぐすく)島の祭祀をとりあげた論文であること、元々の卒業論文の分量が52000字におよぶこと、小山田さんは卒論提出後も新城島を訪問し研究を続けるつもりであったことなどである。

小山田さんの卒論は、分量が多すぎて、第一文学部演劇映像専修の紀要(『演劇映像』)にその全てを収録することができなかった。和田先生は、「第六章の祭の記録のうち、準備日と祭初日を泣く泣く割愛して、祭中日・最終日の全文と歌謡の採録、第七章の考察全文を掲載することにした」(卒論抜粋: p.30)ようである。ということは、第6章に入る前に5つもの章があったことになる。これは学部生の卒業論文としては、相当の分量であったと思われる。 

小山田さんが卒論でとりあげた祭祀とは、アカマタ・クロマタのことである。小山田さんが通った新城島上地地区のほかに、西表島古見地区、小浜島石垣島宮良地区でも執りおこなわれているという。

cf. 撮影禁止の看板が埋め尽くす秘祭「アカマタ・クロマタ」。石垣島で私が見たものは... | ハフポスト

cf. アカマタ・クロマタ - Wikipedia

「仮装・覆面の来訪神」という意味では、ユネスコ(UNESCO)の無形文化遺産に登録された宮古島の「パーントゥ」と似ているかもしれない。

cf. パーントゥ - Wikipedia

が、しかし、アカマタ・クロマタ祭祀(豊年祭)は、パーントゥに比べて、詳細を秘匿しようという規範の力が強くはたらいているようである。新城島ではなく石垣島の事例ではあるが、上記のハフィントンポストの記事にも「撮影禁止」を強調する物々しい看板の写真が掲載されている。解説文を寄せた和田先生も、「秘儀の多い祭であり、それを公表することが適切なのかどうか、本人も生前に心配しており」(p.29)と補足している。ひょっとすると、このあたりの事情は、小山田さんが4年生の冬までに卒業論文を書き切らなかったことと無関係ではないのかもしれない。

小山田さんが初めて新城島を訪問したのは2001年秋(学部2年生)(p.30)。豊年祭は夏(旧暦の6月*1)に執りおこなわれるので、小山田さんは初訪問時にはアカマタ・クロマタを見ることができなかったはずである。しかし、その時、豊年祭とは別の「節祭(しち)」という祭が開催されており、いたく感激した小山田さんは、「滞在を一週間に延ばし、Nおじい宅に寄宿して、小さな島のあちこちの残る旧跡を案内され、夜毎島の伝説や様々な祭の様子を聞くうち、ますますその歴史の深みと複雑さに惹かれ、結局翌夏(引用者注:2002年)の『豊年祭』まで、四回にもわたってこの島を訪れることになっていた」(p.30)。そして、「その後も吸い寄せられるように毎夏を島で過ごし、訪ねる度また新たな魅力を発見し続けて」(p.31)いたという。

完全版の小山田論文は、祭の記録を、7月30日(準備日)、31日(初日)、8月1日(中日)、2日(最終日)の計4日間に渡って記述しているらしい。ただし、和田先生も解説しているように、『演劇映像』に所収されているのは中日と最終日だけで、準備日と初日の記述は紙幅の都合から省略されている。

読み進めながら、和田先生による小山田論文評を思い出す。

「彼女の文章は祭の生々しい鼓動をそのまま伝えるかのように細やかであるが、論文としてはいささか流麗に過ぎるところがあり、また要約ではその持ち味が伝わらない」(p.29)。

「エッセイ風の文章のなかに祭の微細な裏表を描き出したモノローグである小山田さんの文章を、部分的に切りだしては意味がないように思われた」(pp.29-30)。

祭の記録を読んでみると、上記の小山田評に同感である。この感じを言葉で説明するのは難しいので、いっそのこと引用しておこうと思う。

村落の各家々では、昨日配給されたもち米を使って握り飯作りが始まる。世通し山に篭る男たちに代わって、多くの家庭では女たちが客をもてなし、供物を用意するのである。…(中略)…

Nおじい宅では、いつのまにかオガンから帰ってきていたおじいが裏庭に火を起こし、大きな釜を用意していた。HおばあとSおばあを手伝って米を洗い、釜にあける。水を差し火を強めたら、舟漕ぎの櫂のような形をした木べらで、しばらくかき混ぜる。「始めちょろちょろ、中ぱっぱじゃないの」と言ったら「は?」と言われた。沖縄では、言わないんだろうか、これ。

…(中略)…

さっそく庭に腰掛けて、握り飯作り。手のひらサイズに切った芭蕉の葉にごま油を塗り、釜から直におこわを取ってやや大きめに握る。炊き上がったばかりのもち米は、もうもうと湯気を立てている。葉っぱごしに触っているとはいえとてもすぐには握れなくて、熱い熱いと騒ぐと、「嫁に行かれんよー」。なかなか手厳しいのだ。

油を塗っているため、掴んだ米は一息に握らないと、ばらばらに崩れてしまう。握力もないけれど学習能力も持ち合わせがない私は、不恰好な出来損ないをいくつも作り続けては笑われる。「ぎっ、ぎっ、とにぎれ!」。二人のおばあの作品は、さすがにきれい、形も大きさもそろっている。

「よっぽど今年なんか、孫が生まれたでね、娘のところへ行こうとも思ったけど、やっぱり戻ったさ」「島の女さね」「なにかしらん、わくわくするわけさあ」「私なんか、ひと月も前からずっと落ち着かんよ」「太鼓が聞こえとるよ、もうだめね。明日なんかちょっとも眠られんかったさ」「なあに、ンダ(あんた)いびきかいておったよ」。

美味しいものを作りながら聞く話は心愉しい。三人で八十個ばかりも握って作りあげた。最後の方は私もかなりきれいに仕上げられるようになった。なにごとによらずそうだが、コツを掴んだ頃に仕事は終わる。

山からは相変わらず太鼓が聞こえ続けている。

(p.30)

上記のように、小山田さん自身が感じたことについても積極的に記述されているのが、小山田論文の特徴である。小山田さんは中途半端な客観性を装おうとしない。祭の記録は、終始、このような感じで綴られていく。

最終日(8月2日)早朝には、「神送り」でアカマタとクロマタを送り出す。豊年祭のいわばクライマックスである。このクライマックスの描写もすごい。

ゆるやかに傾斜した山への道を、二神がゆっくりと上って行く。その目はじっとこちらを見つめている。朝もやに、巨大な影がかすんでゆく。小さくなってゆく。まだ見える、ああ、もう消えてしまう。行ってしまう。最後の姿。焼き付けなければ。

しかし、こみあげてくるものをおさえ切れず、お終いの一瞬は、ゆらりとにじんで消えてしまった。

…(中略)…

ゴザに座っているSおばあを起こしに行った。もうすっかり腰の曲がったおばあなのだ。おばあはぼんやりと、二神の帰っていった山の方を見ていた。「おばあ」。

日に焼けた、しわ深い頬を涙がつたっている。「行っちゃったね」「…ああ」。深いため息がひとつ出た。顔をあげ、にっこり笑って私の手を取る。「行ってしまわれたさあ」。どっこいしょ、と立ち上がる。これから校庭で、締めのマキブドゥリが始まるのだ。「寂しくなった」「そうだねえ」「私涙が出たよ」「終わってしまったね」「来年も見られるかなあ」「生きとらばどぅ見るるさ」

(p.39)

和田先生の言うとおりで、これは「論文」というよりもむしろ「エッセイ」ないし「ルポルタージュ」である。とはいえ、かえってこの書き方の方が、新城島の豊年祭とはどういうものなのかについて、うまく表現できているように思う。

これまで僕は、自分の学生たちには「学者」らしい論文を書かせようとしてきた。事例を記述するパートでは、文語調で、書き手の主観をなるべく排するように指導してきた。「エッセイ」は研究に値しないとか、そういう考えを持っているわけではない。今の学生たちには、自分の考えを筋道立てて文章化し、何かを論じる機会が少なくなっている。だから、せめて卒論の時くらい「お堅い」文章を書いてほしいのである。武道でいうところの型(カタ)を教えているイメージであろうか。1度そういうことを経験しているのとそうでないのとでは大違いではないかと思うのである。

けれども、よくよく考えると、自分の考えを筋道立てて記述できるスキルを既に修得している学生に対して、そういう指導方針を採る必然性はない。小山田さんのように、既に自由自在に文章を操ることのできる学生が僕の前に現れた場合、どうするか? 少なくともこれまでとは違った付き合い方が必要になるだろう。

ちなみに、おそらく、小山田さんはかなり意識的に「論文」の体裁から距離を置いていたのではないかと思う。

そう思う理由は『えいやっ!』の中にある。2003年7月13日(4年生の夏)の日記に、「W田先生と共に卒論指導を受けるクラスメイトたちとで飲みに行」(『えいやっ!』: p.142)った時のことが綴られている。

W田先生とお話ししていて、色々考える。これまで何となく感じてた学校の息苦しさ……研究者の狭さみたいなものへの猜疑心。ある対象に的を絞って、掘り下げ、社会にフィードバックする上でのいくつかの接点を丁寧に拾いつつ、進む……。そのものになれないのにゴールはあるのか? というのはいつも、疑問。

W田先生自身、お若いし、いわゆる先輩「学者」陣の不遜や傲慢、たくさんの壁と戦いながら続けておられる感がある。ご本人はただ愛して、もっと知りたくて、近づこうとしていらっしゃるだけでも。古典芸能には変らぬ故の魅力があり、また強い魅力を持った芸能が時間を超えて愛され受け継がれていくのだろうが、こと民俗芸能に関しては時代と土地と人との要請があって初めて本義を果たすわけだし、そういう意味ではその土地の人々(継承者)の望む形で受け継がれてゆくのが自然だろう。「研究するという立場で見るから変わらないでいてくれると単に嬉しくて便利なんですね」……そういうことなんだろう。そこを学ぶもの自身が誤解すると無意味な悲劇が起こったりもする。エチオピアの話とかひどいしな。

で、文化の進度の是非って当事者にしか問えないところがあるし、同時に第三者だからこそ見えるものもあるから、一概には言えないが、私は物事が変わってゆく速度としてベストなのは「草木の成長するスピード」だと考えてて、結局そのサイクルを無視してリズムを刻む文化も文明も破綻してゆくような気がする。植物のスピード、状況を受け入れながらゆるやかに伸び、根を張り、時には眠りつつ、たゆみなく。見ている側も、そこから何かを学ぼうとするならば、同じサイクルを見据えているべきだと思う。

「外側の人間」が知りたいと思う時には、あらゆる角度の「外側」から見つめるしかない。個人的には、好きなものにはあくまで一「ファン」というスタンスを保ちたい。近づく切り口は色々あっても、精神的には、いつも。

(『えいやっ!』: pp.143-143)

「古典芸能」と「民俗芸能」という2つのキーワードが登場するけれども、小山田さんが卒論で取り上げようとしていたアカマタ・クロマタはもちろん「民俗芸能」の方に属する。「学者」は、その存在意義を、当事者たちの「外側」から語ろうとする。そうすることで「客観的である」フリをしてきたといってもよい。小山田さんが「学者」たちのそうした態度に違和感を抱いていることがよくわかる。

とはいえ、「学者」の接近方法を用いないのだとしても、小山田さんが「外部の側」の人間であることには変りない。100%「内部」の人間になることはできない。上記の引用文からは、そうした葛藤を読み取ることができる*2

同様の葛藤は、日々僕も感じているが、感じ始めたのは比較的最近のことである。やっぱり、この葛藤は、「自分のフィールド」を持った者でなければ感じることのできないものなのだろうな。 改めて、学生たちに「自分のフィールド」を持たせてあげることの重要性を実感した次第である。また、20歳そこそこで、教員の助けを借りるでもなく自力で「自分のフィールド」に出会った小山田さんの嗅覚・センスには、脱帽するしかない。

以上のように、『えいやっ!』にしても卒論にしても、小山田さんと同い年だからこそ、「同じ年齢の頃、自分は何をしていたか? 何ができ、何ができなかったか?」ということを多分に意識しながら読んだ。また、それだけでなく、ちょうど卒論指導をしている時だったからこそ、「現在の平均的な学生と比べて小山田さんはどうか?」ということも多分に意識しながら読んだ。この時期、このタイミングで小山田さんの書いたものを手に取ったことは、単なる偶然ではないような気がするのである。

最後に、こんなに才能に溢れた人が、わずか24歳で命を落とさなければならなかったことを、悲しく、残念に思う。どうしても月並みな言葉になってしまうけれども、僕たちは小山田さんの分まで生きなくてはならない、と思った。

*1:小山田さんが卒論を執筆した2004年度には7月31日から8月2日の朝にかけて実施された(p.31)。

*2:オーソドックスな社会科学の研究は、事例の記述に際して観察者の主観を極力排する。ただし、観察者の感じたことを積極的に記述するスタイルの研究方法も、無くはない。社会集団の内部に入り込み、外からでは容易に理解することのできない、共有された価値観・規範などを明らかにするエスノグラフィー、あるいは、観察者自らが実践に加わるアクション・リサーチなどを例として挙げることができる。そうした研究方法論を採用した場合に、小山田さん的な論文の書き方も、「エッセイ」ではなく「研究」の範疇に含めて語ることもできるかもしれない。が、この話についてはまた別の機会に論じることにしたい。

卒論指導と小山田咲子さんのこと(1)

1月は卒業論文の追い込みシーズンである。最近の学生の文章力が落ちているのか、はたまた「この先生は文法的な間違いは放っておいても直してくれるわけだから、自分で推敲するよりもとりあえず見せちゃった方が楽」と思われて(要するにナメられて)いるのか、まあとにかく読みづらい文章を添削させられている。「ら抜き言葉はやめる」、「体言止めはやめる」、「主語と述語の対応関係を意識する」、「そこは抽象化して語る」、「そこには具体例が必要」、「他者的視座で読み返す」、「自分に厳しく、読者にやさしく」。教えても教えてもなかなか伝わらない。卒論指導は賽の河原に石を積むような作業であると思う。

ひょんなことから気になりだした小山田咲子さんのエッセイ集(『えいやっ!と飛び出すあの一瞬を愛してる〔新装版〕』海鳥社、2013年)を、添削の合間に読んでいる。

https://www.amazon.co.jp/dp/4874158986/

 小山田さんは、2005年9月29日、アルゼンチンを旅行中に、同行した友人の運転する車の助手席に乗っていて事故に遭い、亡くなった。当時24歳だったという。この本には、2002年10月から2005年9月まで(21歳から24歳)の間に彼女がウェブ上に綴っていた日記が収録されている。

小山田さんと僕の間に面識は、もちろんない。ただし、他人だとは思えなくなるような共通点がいくつかある。まず、1981(昭和56)年生まれということ、そして、2002年にウェブ日記をつけ始めていることである*1。僕も、2002年の大学3年生だったあの頃、何か特殊なスキルがあるわけではないけれども、それでも何かを表現したくて、居ても立ってもいられなくて、右も左もわからないままウェブ日記を書き始めたのである。

小山田さんの日記には、「自分と一緒だな」と思える箇所と、「この時期の自分には到底無理だったな(この歳でこんなことができていたんだ!?)」と思える箇所がある。同い年であるがゆえに、ついついそういう読み方をしてしまう。

「自分と一緒だな」と思える箇所の1つめは、ウェブ日記をつけ始めた時期の文体のおぼつかなさである。自分の文体を模索しているかのような不安定さが見え隠れしているように思う。これは僕の場合も同じだった。自分のウェブ日記を読み返すたびに、つけ始めの時期の文体がこっぱずかしくて、しばしば消してしまいたくなったことを思い出す。

ところが、小山田さんの場合、そのおぼつかなさが、ものの1ヶ月ですぐになくなっている。2002年11月頃には、既に自分の文体を確立しているように見える。これは「自分には到底無理だった」箇所である。僕は自分のスタイルを確立するのに1年はかかったように思う。

「自分と一緒だな」と思える箇所の2つめは、これは至極単純な話ではあるが、文中に登場するコト・モノの中に、自分も当時、読んだり、聴いたり、観ていたもの、あるいは関心を持っていたものが少なからず含まれているということである。ざっと書き起こしてみるだけでも、チベタン・フリーダム・コンサート(p.107)、花村萬月の『二進法の犬』(p.137)、NATSUMEN(p.223)、カエターノ・ヴェローゾ(p.265)。こんなに素敵な人と同じものを見聴きしていたのかと思うと、ちょっと嬉しい。

その一方で、小山田さんのインプットの量はすさまじい。音楽だけでなく、映画、演劇、文学、そしてしばしば旅行。これは「自分には到底無理だった」と思う箇所である。これだけのインプットがあれば、わずか1ヶ月のうちに自分の文体を確立してしまったのも、妙に納得である。とくに旅行がうらやましい。もう一度学生をやり直すことができるならば、もっともっと旅行をして、多様な文化、多様な価値観に触れたい。今、そのことだけが悔やまれる。学生にも常々「若いうちの海外旅行だけは借金してでもするように」と言っている。その意味では、小山田さんの学生生活は僕からみると理想的なのである。

そういうわけで、小山田さんの国際経験は20代そこそこの学生としては相当なものである。圧巻だと思ったのは、2003年9月11日から4回に渡って連載されている、海外のユースホステルでの出来事である(pp.155-168)。小山田さんは、BVJルーブルというユースホステルで、ドイツ人、アメリカ人、ロシア系イスラエル人、トルコ人、フランス人に彼女を加えた女子6人で議論する。そこで、パレスチナ問題、ホロコースト核兵器などの問題が絡み、一時は険悪な空気が流れるものの、根気よく対話を続けるうちに相互理解の糸口が見つかる、という話である。まとめ方がまたすばらしい。「美しいものを美しいと感じる心には、国家や民族の見えない壁を一足飛びに超える強さがある。もっと言えばそれは教育や論理をもってしても動かしえない、人間の本能が司る感覚だと思う。文化や宗教といった非論理的なものがもたらす人間同士の争いを、各人の論理で割り切って解決しようなんて土台無理な話ではあるのだ」(p.168)。自分は学部4年生9月の時点でこれを書けただろうか? いやそれどころか、37歳になった今でもこんな文章は書ける気がしない。

「自分と一緒だな」と思える箇所の3つめは、小山田さんが、就職活動にいまひとつ身が入っておらず、また、とりわけ4年生の頃には卒論の執筆にも身が入っていないように見える点である。あくまで推測になるが、小山田さんも、何らかの形で「表現」に関わる進路に進むのか、無難に就職するのか、迷っていたのではないかと思われる。2003年4月14日の「思いの強さ」というタイトルの投稿からして、書き出しこそ就職活動への言及があるものの、主題はどちらかといえば、「夢を追うこと」の方にあるように読み取れる。

「最近気まぐれに就職活動などということをしていて、よく思うのは、結局すべては自分の中の問題だなあということ。…(中略)…希望とか目標にしてもそうで、要はどれほど夢中になれるかということのような気がする。私の周りでもやりたいことをやっている人というのは皆すごく対象に集中して、気持ちと体を全部そこに向けて動いている。その結果ある価値を手に入れた人に対して運が良いとかいう安直な言い方する人がいるが、それはちょっとどころじゃなく間違っていて、やりたいことに真っ直ぐ向かう人は自分でも努力していると意識しないくらいの自然さで可視不可視の努力をしていて、その前向きさは周りの状況すら自分に向いた方向にねじ込んでゆく強さを生むから、結果がついてくるのだと思う。/やりたいのにやれないというのは言い訳、というより、やりたい気持ちが足りないかあるいは自分が完全に自分と向かい合う環境を作れていないだけの話なのだろう。人が本当に何かをやろうと決めた時にはそれを邪魔するような強大な壁って実はあんまりなくて、環境はむしろびっくりするような偶然を用意して背中を押してくれることも多い」(pp.108-109)

3回生の終盤から4回生にかけて、自分は何を考えていただろうか。何らかの形で表現活動をしたい、具体的にいえば、何らかの形で文章を書く仕事に就きたいと思っていたような気がする。作家か? 評論家か? 選択肢はいろいろある。しかし、いずれもそう簡単になれるような職業でもない。だから、「保険」の意味も込めて就職活動もしてみるわけだが、そんな中途半端な態度でうまくいくはずもなく*2、かといって卒業論文の執筆にも身が入らなかった。ところが、厄介なことに、身が入らないなりに卒業論文もまた「自分の表現物」という感覚はあるわけで、「不本意な仕上がりの卒業論文を提出すること」は許せない。今思えば、面倒くさい自意識だったなと思う。院試の勉強にも身が入らず、卒業を1年延ばすことにし、結果的には卒業論文もじっくり書き直すことにした。後述するように、小山田さんも卒業を1年延ばすことになるわけだが、ひょっとしたら僕と似たような経緯があったのかもしれないと思った。

小山田さんの日記の中では、3年生の冬(2002年12月11日)に初めて卒業論文のことが登場する。卒論指導担当がW田先生に決まったことが記されている(p.57)。その後、4年生の夏(2003年7月13日)に「W田先生と、共に卒論指導を受けるクラスメイトたちとで飲みに行」(p.142)った時のエピソードが紹介されたあと、暫く卒論の話は出てこなくなる*3。卒論はいつ提出したのだろうか? と思っているうちに、2004年4月2日の日記で「大学生活も5年目を迎え」(p.197)たことが示される。「就職活動をやめたこととか、先の見えない研究の道のり」(p.208)という記述が、この時、何が起こっていたかを考えるうえでのヒントである。 

次に卒論の話が登場するのは、2004年12月10日の「卒論」(p.234)、12月13日の「悲鳴」(pp.235-236)、12月17日の「製本」(pp.236-237)、そして12月18日の「提出」(pp.237-238)。ここに至ってようやく、めでたく卒論を書き終えたことがわかる。年度が変わって、2005年4月11日の日記には、「おかげさまで元気なうえ、いろんなことに整理がついて良いタイミングで新学期です。そこで、近況報告をしたいと思います。/まず、先月の25日に学部を卒業しました。さっき『新学期』と言ったようにまだ微妙に学生をしていますけど。ひつこいね」(p.251)との記述がある。

ところで、「まだ微妙に学生をしています」(p.251)とは、どういうことだろうか?5年生4月の時点での「先の見えない研究の道のり」(p.208)という表現も含めて、気になるところである。僕と同じように大学院に進学したということなのかもしれないが、巻末の「小山田咲子略年表」の中には、そのような情報は載っていない。

ところで、小山田さんの卒業論文は、部分的に…であれば公刊されている。

ちょうど卒論指導中だったこともあって、小山田さんの卒業論文が気になった。仕事柄、他大学の図書館から論文のコピーを取り寄せることは朝飯前である。ひょっとしたら卒業を1年遅らせた理由がわかるかもしれないし、それに何より、あれだけの感性を持っている人の卒論はどういうものなのか単純に興味も湧いてきて、コピーを取り寄せてしまうことにした。(つづく)

卒論指導と小山田咲子さんのこと(2:完) - にゃまぐち研究室

*1:これらに加えて、幼少期を福岡県(彼女は飯塚、僕は久留米)で過ごしていること、子どもの頃どうやら親に山登りに連れていってもらっていたこと、さらに大学で1留し計5年かけて学部を卒業している点も、共通点といえば共通点である。

*2:補足しておくと、2003年当時は、日本社会が就職氷河期から完全には抜け出し切っていない時期であったと記憶している。

*3:2004年1月25日の日記に「今日こそは何が何でも書き上げる」(p.186)という記述があるので、ひょっとしたら卒論のことかもしれないと思ったが、後述するように小山田さんの学科(専修?)の卒論提出締切は例年12月のようである。おそらくは卒論とは別の何か(レポート?)ではないかと思われるが、真偽のほどはわからない。

若手映画監督にお話をお聞きした

学生の卒論指導半分、自分の興味関心半分で、2人の若手映画監督にお話をお聞きできないかオファーを投げてみたところ、奇跡的にお話をお聞きできることになった。しかもそのうちのお1方が、もう1人、映画監督を誘っていただけることになったので、結果的には3人にお話をおうかがいできることになった。ただし、その3人のお名前については、ここでは伏せておくことにする。

普段、ヒアリング調査をさせていただく際には、流通・商業関係者やまちづくり・地域づくり関係者にお話をおうかがいすることが多い。そういう時には、調査対象者から情報を「いただく」のみならず、いちおう「専門家」の端くれとして、こちらの知りうる情報は「差し上げる」ようにしてきたつもりである。つまり、可能な限り、情報の「交換」が成立するように努めてきた。もちろん、こちらから差し上げることのできる「情報」の価値なんて、現場の実践者たちからすればたかがしれたものだと思うので、その「交換」は「不等価交換」であることがむしろ常態になってしまう。お謝金をお支払いできる時は薄謝ながらなるべくお支払いするようにし、それが無理ならせめて手土産は持参させていただいて、可能な限り「等価交換」に近づける努力をしてきたつもりである。

しかし、今回は、映画に対するわれわれの知識が足りず、その「交換」がうまく成立しなかったように思う。その点、お忙しい時間を割いてご対応いただいた監督の方々には申し訳なく思っている。強いて言えば、素人からみたら映画はどう見えているのか、素人は映画に対してどういう固定観念をもっているのかといったことについて、映画監督の方々にお伝えするまたとない機会ではあったが、あくまでもそれはこちらの希望的観測にすぎない可能性もある。

とはいえ、われわれの側は、情報をもらいにもらって、大いに勉強になった。まだ咀嚼しきれていないところもたくさんあるのだけれども、印象に残った話は書き留めておきたいと思った。

興味深かったのは、「自らの作家性をどう考えますか?」という質問に対して、どの監督さんも「それは監督の側が自ら語ることではない」と答えたこと。映画監督の「作家性」は、むしろそれを批評する側が「こう読める」、「こう解釈できる」と整理するものであって、作り手側が発信するようなものではない、というのである。「作家性」は社会的に構築されるものなのだな、と妙に納得してしまった。

上記のことは、映画関係者や映画ファンの間では、ほとんど常識のような論点なのかもしれない。そんなことも知らずに素人丸出しの質問をしてしまって申し訳なく思った。その一方で、社会科学には「周囲からどう評価されているか?」よりも先に、まず「本人の意図」を問題にする習慣がある。言い訳するわけではないが、長年染みついた習慣によって、そういう聞き方以外の選択肢が思い浮かばなかった。映画を研究対象に挙げることの難しさを、改めて実感した次第である。

もう1つ、強く実感したのは、映画は少なくとも素人が思う程にはcontrolableではない、という論点である。われわれ素人は、ついつい「作家性をとるか? 商業性をとるか?」といった、二者択一的な問題の建て方をしてしまいがちである。しかし、こうした問いかけの背景には、映画監督は映画のあり方を自在にcontrolできるという前提が暗黙裡に挿入されている。しかし、映画監督のお話をお聞きすればするほど、むしろuncontrolableな側面を意識させられた。映画には多くのスタッフが関わっている。全てのスタッフを監督が思い通りに動かせるわけではない。また、資金の多寡や天候条件など、映画のあり方は多種多様な条件に規定されている。極端な話をすれば、仮に映画監督が「今度の映画では作家性を強めにしてみるか…」と思ったとして、実際にそうできるかというと、そういうものでもない。何をどうしたら作家性が高まるのか? 何をどうしたら大衆的になるのか? 何をどうしたらおもしろい映画になるのか? そういったことは事後的にしかわからない。映画の素人であるわれわれは、恥ずかしながらこうした感覚を持ち合わせていなかったのである。

ところで、近年、日本映画の多くは、製作委員会方式とよばれる資金調達方法を用いてつくられるようになっている。製作委員会方式ならば、リスクをうまくヘッジし、テレビやインターネットなどのメディアも活用しながら効果的に宣伝できる。古典的なスタジオシステムによる映画づくりに比べて、ヒット作を生み出しやすくなっていると議論される。

その一方で、製作委員会方式には、「儲かる映画しかつくろうとしなくなるのではないか?」、「無難で大衆的な映画しかつくることができなくなるのではないか?」、「邦画のマンネリ化を招いているのではないか?」といった類の懸念も指摘されている。

cf.  東宝“単独製作”『シン・ゴジラ』で露呈した製作委員会方式の功罪 | ORICON NEWS

 実際のところ、若手映画監督は製作委員会方式に対してどのような感触を持っているのであろうか。恐れ多くも質問をぶつけてみた。

この点も、3人ともほぼほぼ同じような答えで、製作委員会だからダメだとか、逆にいいとか、そういうことではなく、プロデューサーやカメラマンとの相性の方が、よっぽど映画づくりに影響を与えているという。自主制作に近いノリで企画を練ってから、資金調達の手段として製作委員会方式が採用されることもあるし、世間一般でいわれるところの懸念は、かならずしも的を得ているとは言い難い。すくなくとも3人のお話からは、そうしたイメージの方を強く認識させられた。

たしかに、製作委員会方式で映画をつくる場合の方が、自主制作の場合に比べて、多種多様な関係者との間の調整ごとが必要になる。監督さんが当初やりたかったことに異論を差し挟む委員も出てくるかもしれない。とはいえ、プロデューサーとの関係のつくり方や、熱意をもって説明しようという姿勢によって、ある程度のことはクリアできるという。また逆に、自主制作の場合、資金の不足ゆえにつくりたい映画がつくれない、という側面もやはりあるわけで、どちらの方が思い通りに映画をつくることができるのか、という問い自体がナンセンスという見方もできるわけである。今回お話をおうかがいした監督さんたちは、むしろ「与えられた条件の中で少しでもおもしろい映画をつくろうとすること」が映画監督の仕事だと、前向きに考えていた。多少のトーンの差はあるとはいえ、この点は共通していたように思う。

他にも、それぞれの監督の個別の作品に関する質問も、われわれなりにさせていただいたが、その話をしてしまうと、今回お話をおうかがいした監督さんたちの実名がわかってしまうので、ここでは割愛する。

それにしても、素人丸出しの質問ばかりで監督さんたちにはご迷惑をおかけした。しかし、おもしろかった映画の監督さんに直接お話をおうかがいすることで、その監督の作品がますます好きになったし、彼らの次回作もぜひ劇場で見てみたいと思った。要するに、今回のインタビューを通して、すっかりその映画監督のファンになってしまったというわけである。「若者の映画離れ」が進んでいるが、映画監督がもっと身近で、もっと気軽に話しかけられるような存在になることも、日本映画の今後を考えるうえでは重要かもしれない。