若手映画監督にお話をお聞きした

学生の卒論指導半分、自分の興味関心半分で、2人の若手映画監督にお話をお聞きできないかオファーを投げてみたところ、奇跡的にお話をお聞きできることになった。しかもそのうちのお1方が、もう1人、映画監督を誘っていただけることになったので、結果的には3人にお話をおうかがいできることになった。ただし、その3人のお名前については、ここでは伏せておくことにする。

普段、ヒアリング調査をさせていただく際には、流通・商業関係者やまちづくり・地域づくり関係者にお話をおうかがいすることが多い。そういう時には、調査対象者から情報を「いただく」のみならず、いちおう「専門家」の端くれとして、こちらの知りうる情報は「差し上げる」ようにしてきたつもりである。つまり、可能な限り、情報の「交換」が成立するように努めてきた。もちろん、こちらから差し上げることのできる「情報」の価値なんて、現場の実践者たちからすればたかがしれたものだと思うので、その「交換」は「不等価交換」であることがむしろ常態になってしまう。お謝金をお支払いできる時は薄謝ながらなるべくお支払いするようにし、それが無理ならせめて手土産は持参させていただいて、可能な限り「等価交換」に近づける努力をしてきたつもりである。

しかし、今回は、映画に対するわれわれの知識が足りず、その「交換」がうまく成立しなかったように思う。その点、お忙しい時間を割いてご対応いただいた監督の方々には申し訳なく思っている。強いて言えば、素人からみたら映画はどう見えているのか、素人は映画に対してどういう固定観念をもっているのかといったことについて、映画監督の方々にお伝えするまたとない機会ではあったが、あくまでもそれはこちらの希望的観測にすぎない可能性もある。

とはいえ、われわれの側は、情報をもらいにもらって、大いに勉強になった。まだ咀嚼しきれていないところもたくさんあるのだけれども、印象に残った話は書き留めておきたいと思った。

興味深かったのは、「自らの作家性をどう考えますか?」という質問に対して、どの監督さんも「それは監督の側が自ら語ることではない」と答えたこと。映画監督の「作家性」は、むしろそれを批評する側が「こう読める」、「こう解釈できる」と整理するものであって、作り手側が発信するようなものではない、というのである。「作家性」は社会的に構築されるものなのだな、と妙に納得してしまった。

上記のことは、映画関係者や映画ファンの間では、ほとんど常識のような論点なのかもしれない。そんなことも知らずに素人丸出しの質問をしてしまって申し訳なく思った。その一方で、社会科学には「周囲からどう評価されているか?」よりも先に、まず「本人の意図」を問題にする習慣がある。言い訳するわけではないが、長年染みついた習慣によって、そういう聞き方以外の選択肢が思い浮かばなかった。映画を研究対象に挙げることの難しさを、改めて実感した次第である。

もう1つ、強く実感したのは、映画は少なくとも素人が思う程にはcontrolableではない、という論点である。われわれ素人は、ついつい「作家性をとるか? 商業性をとるか?」といった、二者択一的な問題の建て方をしてしまいがちである。しかし、こうした問いかけの背景には、映画監督は映画のあり方を自在にcontrolできるという前提が暗黙裡に挿入されている。しかし、映画監督のお話をお聞きすればするほど、むしろuncontrolableな側面を意識させられた。映画には多くのスタッフが関わっている。全てのスタッフを監督が思い通りに動かせるわけではない。また、資金の多寡や天候条件など、映画のあり方は多種多様な条件に規定されている。極端な話をすれば、仮に映画監督が「今度の映画では作家性を強めにしてみるか…」と思ったとして、実際にそうできるかというと、そういうものでもない。何をどうしたら作家性が高まるのか? 何をどうしたら大衆的になるのか? 何をどうしたらおもしろい映画になるのか? そういったことは事後的にしかわからない。映画の素人であるわれわれは、恥ずかしながらこうした感覚を持ち合わせていなかったのである。

ところで、近年、日本映画の多くは、製作委員会方式とよばれる資金調達方法を用いてつくられるようになっている。製作委員会方式ならば、リスクをうまくヘッジし、テレビやインターネットなどのメディアも活用しながら効果的に宣伝できる。古典的なスタジオシステムによる映画づくりに比べて、ヒット作を生み出しやすくなっていると議論される。

その一方で、製作委員会方式には、「儲かる映画しかつくろうとしなくなるのではないか?」、「無難で大衆的な映画しかつくることができなくなるのではないか?」、「邦画のマンネリ化を招いているのではないか?」といった類の懸念も指摘されている。

cf.  東宝“単独製作”『シン・ゴジラ』で露呈した製作委員会方式の功罪 | ORICON NEWS

 実際のところ、若手映画監督は製作委員会方式に対してどのような感触を持っているのであろうか。恐れ多くも質問をぶつけてみた。

この点も、3人ともほぼほぼ同じような答えで、製作委員会だからダメだとか、逆にいいとか、そういうことではなく、プロデューサーやカメラマンとの相性の方が、よっぽど映画づくりに影響を与えているという。自主制作に近いノリで企画を練ってから、資金調達の手段として製作委員会方式が採用されることもあるし、世間一般でいわれるところの懸念は、かならずしも的を得ているとは言い難い。すくなくとも3人のお話からは、そうしたイメージの方を強く認識させられた。

たしかに、製作委員会方式で映画をつくる場合の方が、自主制作の場合に比べて、多種多様な関係者との間の調整ごとが必要になる。監督さんが当初やりたかったことに異論を差し挟む委員も出てくるかもしれない。とはいえ、プロデューサーとの関係のつくり方や、熱意をもって説明しようという姿勢によって、ある程度のことはクリアできるという。また逆に、自主制作の場合、資金の不足ゆえにつくりたい映画がつくれない、という側面もやはりあるわけで、どちらの方が思い通りに映画をつくることができるのか、という問い自体がナンセンスという見方もできるわけである。今回お話をおうかがいした監督さんたちは、むしろ「与えられた条件の中で少しでもおもしろい映画をつくろうとすること」が映画監督の仕事だと、前向きに考えていた。多少のトーンの差はあるとはいえ、この点は共通していたように思う。

他にも、それぞれの監督の個別の作品に関する質問も、われわれなりにさせていただいたが、その話をしてしまうと、今回お話をおうかがいした監督さんたちの実名がわかってしまうので、ここでは割愛する。

それにしても、素人丸出しの質問ばかりで監督さんたちにはご迷惑をおかけした。しかし、おもしろかった映画の監督さんに直接お話をおうかがいすることで、その監督の作品がますます好きになったし、彼らの次回作もぜひ劇場で見てみたいと思った。要するに、今回のインタビューを通して、すっかりその映画監督のファンになってしまったというわけである。「若者の映画離れ」が進んでいるが、映画監督がもっと身近で、もっと気軽に話しかけられるような存在になることも、日本映画の今後を考えるうえでは重要かもしれない。