淡路ヶ峠の空撮映像

昨日の話になるが、松山市桑原地区の東にそびえる淡路ヶ峠(あわじがとう)に登ってきた。

たかだか標高273mの低山なので、「そびえる」は言いすぎかもしれない。けれども、桑原地区においてはそこそこ存在感のある山である。小学校や中学校の校歌の歌詞にも登場するという。

名前の中に「峠」という文字が含まれているけれども、れっきとした山である。「峠」という言葉が「山」という意味で用いられている。ちなみに、四国では、「森」という言葉を「山」という意味で使うことも少なくない*1。その用法と似ている。

登山道は、コースにもよるが、宝ノ谷の砂防ダム横から登るコースや桑原中裏から登るコースが最もポピュラーであろう。地元の有志グループが登山道整備に尽力されておられるようで、とても歩きやすい。スニーカーで十分登ることのできる山である。

そういうわけで、桑原地区の住民のちょっとした散策先として愛されていて、毎日登っている人もいるほどである。知り合いの整体師さんも、運動も兼ねて、ほぼ毎日登っているとおっしゃっていた。

山頂にある展望台からの眺めもすばらしい。松山平野を一望できる。晴れていれば、瀬戸内海(伊予灘)に浮かぶ「ネコの島」こと青島や由利島(DASH島)も良く見える。

その淡路ヶ峠を、上空から眺めてみるとどう見えるのだろうか。気になったのでドローンで空撮してみた。

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やはり空撮した方が、淡路ヶ峠の山頂および展望台はかっこよく見える印象。桑原地区住民は、この展望台から下界を眺めることは多いが、この展望台それ自体を眺めることは少ないのである。
ドローンには、視線のベクトルを180度転換させる効果がある。この論点を応用して、何かおもしろい表現を考えることができないか。しばらく思案してみることにしたい。

以下、若干の反省点。

ドローンで松山平野をフツーに撮影しても、あんまり意味はない。展望台の上からドローンを使わずに撮った映像と、大して変わらないものになってしまう。ドローンでなければ撮れない映像とはどういうものか、感覚を磨く必要がある。
その意味では、淡路ヶ峠の肩越しに見える松山平野を撮影してみると、なかなかおもしろい映像になったかもしれない。つまり、淡路ヶ峠の主稜線(鶴ヶ畝尾根というらしい)の東側にある宝ヶ谷に沿うような形で、カメラを西向きにし、ドローンを平行移動させる作戦である。とくに、空気の澄んだ、夕陽の綺麗な時間帯がのぞましい。それって、まさに昨日のことなのだけれども、思い浮かばなかった。精進します。

*1:たとえば、愛媛県第2位の高峰はニノ森(標高1929.6m)という。また、昨年登った南予の瀬戸黒森も、「森」という言葉が「山」という意味で用いられている山である。cf. 2019年4月、瀬戸黒森から篠山へ。:アケボノツツジ咲き始めてます - にゃまぐち研究室

ドローン初撮影

ドローンを購入してみることにした。購入したのは、DJIのMavic Air

DJI Mavic Airをプロが徹底レビュー!Mavic Proとの違いは? | DroneAgent

 

仕事柄、様々な地域(地区)を訪問させていただいている。中山間地域島嶼部を訪問することも少なくない。そうした場所を訪問するたびに、ドローンで空から眺めてみると、この場所はどんなふうに見えるのだろう、と思ってきた。
また、少し真面目な話をしておくと、ドローンがあれば、蟻の目線では思いもよらなかった切り口から、地域の魅力を掘り起こすことができるかもしれないとも思うし、フィールドワークでお世話になったところに、空撮動画のプレゼントという形でお返しができるかもしれない。地域に分け入るためのツールの1つとしても、ドローンには期待できる。
そんなわけで購入してみることにした。
いざ届いてみると、飛ばし方を詳しく書いてくれている取り扱い説明書がない。よくわからない部品やコードがたくさん同梱されている。取説を読んで、飛ばし方をしっかりマスターしてから外に出るのではなく、まずは飛ばしてみることが大事そうな気がした。
それで、人に迷惑をかけずに空撮できる場所はないかと考えた結果、思い当たったのが、昨年、学生を連れて何度も訪問させていただいた久万高原町の「由良野の森」。ついでにいえば、今時分ならちょうど桜が綺麗だろうとの目論見もあった。由良野の森で暮らしている鷲野夫妻にお願いしてみると、快くOKが出たので、昨日、お邪魔してきた。

実際に撮影した映像を編集したものを、Youtubeにアップしておいた。ご興味のある方はご高覧いただきたい。 歩き遍路さんを収めることができたのはよかった。撮影中に気づいていたわけではないので、うれしい誤算である。

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ドローンの操縦は思いのほか難しい。コントローラーには、棒が2つ付いていて、左側の棒で、上昇・下降・水平回転を操作する。右側の棒は任意の方向への水平移動を操作する。操作棒を思うままにガチャガチャ動かすと、撮影した動画がカクカクした動きになり、とても見にくい動画になってしまう(画面酔いしそうな動画)。だから操作棒はそーっと動かす必要がある。慣れるのに小一時間はかかった。

ドローンは思いのほか遠くまで飛ばすことができる。コントローラーにスマホをつなげることで、カメラで撮影している動画をリアルタイムでモニタリングすることができる。モニターの方に夢中になっていると、ドローン本体を見失いそうになることが一再ならずあった。横に付いていてくれた妻が、「今、ドローンはどこそこにいる」とか、「そっちに行くと高い木がある」とか、教えてくれて助かった。初心者のうちは、横にもう1人付いてもらいながら飛ばすのが安心である。
購入前のイメージを覆されたことがもう1つ。動画を撮り貯めていくと、PCの記憶容量を大いに費消することになる。だから、ドローンを弄り始めたら、外付けHDD貧乏になる可能性が高いのだろうなと思っていた。ところが、そもそも、バッテリーがそんなに長いこと持たない。連続して飛び続けることのできる時間は、1つのバッテリーでせいぜい10分という印象だった。だから、記憶容量云々それ以前に、限られた時間、限られた飛行回数で、いい映像を撮る能力が求められる。ドローンを飛ばし始める前に、上空から何をどんなアングルで撮るのかイメージできていることが望ましい。1人前のドローン使いになるためには、3Dの空間認知能力が必要である。

2019年度を振り返る

2019年度を振り返っておきたいと思ったが、深い考察を書いている時間はないので、「あとで掘り下げたい」と思うポイントを備忘録的にメモするに留めることにした。それも、気になったこと全てというよりも、流通業界に関連することを中心に2点だけ*1

1つは、コンビニエンスストアのビジネスモデルが再考を余儀なくされつつあるということである。24時間営業をやめる?やめない?といった論点は、ここ数年、継続的に議論されてきたが、昨年度は、いよいよフランチャイザー(FC本部)の側にも、24時間営業を必要不可欠とする姿勢を軟化させ始めたかにみえる動きが目立った。床屋談義的に言えば「従来型のコンビニのやり方は時代遅れになりつつある」ということに尽きるのだろうけれども、流通論的には、もっと大きな文脈で議論されるべきトピックといえるかもしれない。

元々、コンビニのビジネスモデルは、衣・食・住フルラインの品揃えを安価に取り揃えるGMS的ビジネスモデルのカウンターパートとして誕生した。最初の頃は、「スーパーよりも貧弱な品揃えを、スーパーよりも高く販売する」業態と受け取る業界関係者も多かったと聞く。しかし、「品揃えの豊かさ」、「安さ」よりも「利便性」を販売する業態としての評価が定着すると、コンビニは、日本の消費財メーカーにとって主要な販売チャネルの一画を構成するようになっていった。「24時間営業」は、その「利便性」の重要な構成要素の1つであった*2

だから、コンビニが24時間営業をやめるという事実は、一般の人が考える以上に、流通研究者にとっては衝撃的である。何かこう、大きな時代のうねりを感じる。近い将来、流通論のベーシックな教科書にも、書き換えを要する箇所がいくつか出てくるであろう。どのように書き換える必要があるのか。本当はその話を掘り下げて書きたいところであるが、本気で執筆するとなったらまとまった時間が必要になるので、今日はこのへんで勘弁していただきたい。

2つめは、割と直近の話になるが、例の新型コロナ騒ぎの影響で、マスクや消毒用アルコール、さらにはトイレットペーパーまで、小売店頭から消えたことである。中でもとくに印象深いのは、トイレットペーパーが品薄になったことである。マスクや消毒用アルコールが品薄になることそれ自体は、ウイルスの感染拡大を防ぐために、明らかに必要な商品であるからして、さほど不思議な話ではない。しかし、トイレットペーパーはかならずしもそういう商品ではない。しかも、トイレットペーパーは本当はそこまで不足していなかったにもかかわらず、消費者の間に不安が広がり、買い溜め行動が誘発されたとの議論もある。

まるで石油ショックである。トイレットペーパーを求める主婦たちが殺到し、戦場と化した小売店頭。教科書でしか見たことのなかった、あの光景を彷彿とさせるには十分である。「昔のこと」だと思っていたのに、そんな出来事が現代の日本でも生起することになるとは…

流通論の教科書的には、生産と消費の間にはいくつかの懸隔(へだたり)があって、流通システム(流通過程)の構成主体は、そうした懸隔の架橋を至上命題として活動している、と議論される。それらの懸隔は、古典的配給論ルーツの3懸隔(所有懸隔・空間懸隔・時間懸隔)に加えて、価値懸隔と情報懸隔の2つを加えた、5つの懸隔に整理される*3

これら5懸隔のうち「情報懸隔」は、流通システムの川上側が保有する情報と、川下側が保有する情報の非対称性のことを指す。たとえば、商品の品質や在庫状況に関する情報は、川上側に偏る傾向があるのに対し、商品に対する需要の多寡に関する情報は、川下側に偏る傾向がある。教科書的には、システムの構成主体(卸売業者や小売業者)が頑張ることで、上記のような情報の偏在が解消され、売買・取引の円滑化、ひいては、経済的循環の促進に結びつくことが指摘されてきた。

けれども、上述した石油ショック的兆候(トイレットペーパーの品薄化)は、新型コロナ騒動の状況化において、むしろ、システムによる情報懸隔の架橋がうまくいかなかったことを示唆している。そもそも、インターネットやスマホの普及率が飛躍的に高まり、消費者も、小売業者からのみ商品の在庫情報(供給量に関する情報も含む)を入手するような時代ではなくなった。悪質なデマも含めた、さまざまな風評がインターネット上に乱れ飛んでおり、そうした情報に消費者行動がかく乱されることも、珍しくなくなっている。

今回の騒動によって、消費者側の保有する情報チャネルが多様化していることも念頭において、流通システムの理論を再構築する必要があることを、改めて再認識させられた。その必要性自体は、多くの研究者が認識してきたのだけれども、実際にやるとなったら大仕事で、みんな、なかなか手がつけられないのである。田村正紀『流通原理』(2001年)以降、そうした試みのアップデートは提示されていないのではないかと思う*4

 

*1:実はこれでも流通研究者の端くれなのである。

*2:もちろん、コンビニのビジネスモデルを本気で説明しようと思ったら、「多頻度小口配送」とそれを可能とする物流システムの構築に触れる必要がある。ただし、その話は長くなるので今回は省略。

*3:cf. 鈴木安昭・田村正紀(1980)『商業論』有斐閣。;田村正紀(2001)『流通原理』千倉書房。

*4:ただし、最近、大学院生の頃のようには本を読めていないので、比較的近年発表された本の中にそうした試みの事例が存在する可能性も、皆無ではない。もし存在したなら、ごめんなさい。

2020年度を迎えて

ブログを半年以上にわたって放置してしまった。

大学教員の仕事は、年度末が近づくにつれ、どんどん忙しさが増していく。すくなくともそういう傾向がある。だから、ブログ的には、忙しくなって、更新が滞り始めると、もうどうしようもない。そのあと立て直すことは難しい。年が明けてからは、例年通り、卒論の指導、追いコンの準備、年度内に発行しなくてはならない原稿の執筆などに追われ、追われ、正直、頭の中にブログの「ブ」の字も浮かび上がってこない生活だった。

年度が明けて、ようやく2019年度の仕事から解放されて…と言いたいところであるが、ここだけの話、実はちょっとだけ残務がなくもない…。とはいえ、一段落ついたといえばついた。再会するならこのタイミングかな、と思った次第である。

いちおう論考を編んだり、社会現象を評論したりする立場の人間の端くれではある。だから、どこそこに行ったとか書くだけの投稿や、何々を食べたとか書くだけの投稿は、なるべく避けるようにしてきたつもりである。とはいえ、長らく更新が滞るくらいなら、もう少しシンプルな投稿が増えてもいいのかなと、心境の変化も生じ始めている。

だから、今年度は、「訪問した場所を淡々と記録するよ」的な投稿が増えるかも。

 

たこめし目当てに西垣生へ

この土日で神戸に行ってきた妻を松山空港まで迎えに行ったあと、西垣生に寄ってみることにした。西垣生には「たこめし三原」という有名店がある。

夜の部が始まる17:00まで時間があったので、未体験ゾーンの西垣生最西端エリアを散策してみた。

興居島の小富士の方角に向かってのびる突堤に、釣り人が集まっていた。 

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サビキ釣りのおっちゃんが、1分に1匹くらいのペースで小魚を釣り上げている。

小富士の手前側をかすめるようにして、JALPeachの飛行機が、どんどん着陸してくる。

鳥もいる。 

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何もせずにぼけーっと時間を潰すのによさそうなところである。いい場所を見つけた。 

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「たこめし三原」のたこめしもおいしかった。 

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階下の駐車場を眺めていると、北九州ナンバーの車から、オレンジ色のお揃いTシャツを着た男女4人組がおりてきた。僕らの隣りのテーブルに通されたので、聞き耳を立てていると、大陸系なのか、台湾系なのかはわからないが、中国語をしゃべっているようだった。「たこめし三原」、国際的だ。

そして、彼・彼女らに対して、英語をしゃべろうとしたりなんかせずに、いつも通りの接客を貫徹する三原のおばちゃんたちもかっこよかった。「酢だこにはその(卓上の)三杯酢をかけて召し上がってください」って言ってるけど、どの程度通じているのかわからない。けれども、こんなところまで辿り着けるような4人組なわけだから、本人たちも忖度なしの接客を望んでいたに違いない。

里山資本主義の社会科学的位置づけ

里山資本主義』を著した藻谷浩介さんが近々松山にお越しになる、と聞いて、サブシステンス経済に関する議論をふと思い出した。

石垣島・西表島・竹富島の思い出(3):MIRAB経済試論 - にゃまぐち研究室

Bertram and Watters 論文から抽出されるのは、ある地域における経済のあり方に関する以下の3つの調整様式である*1。詳しくは、上述したエントリーも参照されたい。

ちなみに、上記3つの調整様式を三角形の図にしてみた。

 

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上記3つの調整様式はあくまでも理念型である。つまり、

  • 純粋なサブシステンス経済
  • 純粋な市場経済
  • 純粋なMIRAB経済

として把握できる実在の地域がどこかにあるとは考えない方がいい。

むしろ、

  • サブシステンス経済のウェイトの大きい地域
  • 市場経済のウェイトの大きい地域
  • MIRAB経済のウェイトの大きい地域

がある、と理解しておいた方がよい。また、Bertram and Watters 論文において、上記の3類型は、ナショナルスケールの分析のために用いられていたが、おそらく国内の島嶼を分析する際にも有用なはずである。上述したエントリーではそういう議論をした。

とはいえ、何も島しょ部に限る必要はない。中山間地域を分析する場合にも、上記の枠組みは有用である。

数年前に訪問した、四国の中山間地域のある町では、歳入の半分が国から交付される地方交付金であった。これはMIRABっぽい。

その収入の多くが、公務員の給料になっていく。これもMIRABっぽい。

第3セクターの企業に多くのお金が投下されている。これもMIRABっぽい。

民間企業のために多くの補助金を使っている。しかし、補助金頼みでなかなか自立化しない。これもMIRABっぽい。

その町では、年金生活の高齢者が多い。これもMIRABっぽい。

その町では、産業を育成することが地域的課題であり、各種の取り組みは、「焼け石に水」程度の成果しか生み出していない。これも、市場経済的というよりMIRAB的な兆候である。

その町の子どもたちの多くは、その町に働き口がないため、大きくなったら町を出て、相対的に都会な場所で働くことになる。これはちょっとMIRABっぽい。さらに、都会で稼いだ金を、その町にある実家に送金している家があるとすれば、めちゃくちゃMIRABっぽいが、さすがにそういう家があるかどうかについては確認できなかった。

上記のように、その町には無数の「過疎の町あるある」があった。とはいえ、その町では、米もつくっているし、農作物もとれる。いざとなったら山に食料をとりにいくこともできる。おすそ分けで回ってくる食べ物も多い。年間収入が120万円程度の人でも、何とか生きていくことはできる。これはMIRAB的ではない。市場経済的でもない。サブシステンスな兆候である。

里山資本主義」は、上記のようなサブシステンス経済を再評価しようという議論として読むことができる。あるいは、市場経済か? or MIRABか? としか問題提起してこなかった、オーソドックスな地域づくり論議に、第3のオプションを提示した。サブシステンス-市場-MIRABの三角形を描いてみると、そのことがなおさらよく理解できる。

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しかし…、である。80年代のニューアカブームを経験した読書人なら、既にニヤニヤしていることだろう。Bertram and Watters なんてマイナーな議論*2を引っ張ってこなくたって、カール・ポランニー(K. Polanyi)の3類型で事足りるんじゃないのか…、と。

よく知られているように、ポランニーは、経済社会の調整様式のパターンを、互酬・再分配・交換の3つに類型化した*3

「交換(exchange)」とは、貨幣によって媒介される生産物(財・サービス)の社会的移動のことである(厳密にいえば「市場交換(market exchange)」と表現すべきだが、煩雑化するので「交換」と表記する)。

「互酬(reciprocity)」とは、フラットな個人間・集団間における貨幣を媒介としない生産物のやりとりのことである。概念化にあたっては、ギブ・アンド・テイクの関係や、相互扶助関係が念頭におかれている。おすそ分け文化は「互酬」っぽい。田植えや稲刈りなどのような農作業の繁忙期に、農家同士が労働力を融通し合って手伝い合うのも「互酬」っぽい。やりとりしているのは貨幣になってしまうが、冠婚葬祭でお金を包み合うのも「互酬」っぽい。

「再分配(redistribution)」とは、中心性に特色づけられる生産物のやりとりである。ある部族の労働の成果が一端部族長に集められたのち再び個々の構成員に分配される場合のように、中央に向かう動きと、そこから再び外に向かう動きを含んだものである。ポランニーの枠組みを現代社会にあてはめて理解しようという議論においては、再分配の主体は、政府や地方自治体と理解されることが多い。われわれの納めた税金が政府や地方自治体に集まり、行政サービスの形でわれわれのもとに帰ってくる。

交換-互酬-再分配で三角形を描いてみた。さきほどの三角形と対応するように描いてみたつもりである。

 

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つまり、市場経済と交換は対応関係にある。サブシステンス経済と互酬も完全に一致しないまでもかなり親和的な関係にある。同様にMIRAB経済と再分配も親和的である。

里山資本主義」を、上述した「互酬の経済」的文脈でとらえ直すと、ポランニー的経済社会学がこれまで積み上げてきた研究成果と接合できるようになるだろう。それはそれでおもしろそうである。

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家族類縁的な三角形は、他の議論からも抽出できる。

上記の本も一世を風靡した。三角形の頂点に「NPO」ないし「ボランタリー経済」を持ってきてみた。

「ボランティア」には、「情けは人にためならず」の精神で「貨幣を介さずに労役を提供し合う」側面がある。だから、多かれ少なかれ「互酬」的でもある。

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大きな政府」や「小さな政府」の議論になってきたならば、こういう三角形とも親和的であるといえなくもない。

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ちょっと話が大きくなりすぎた感はある。ここで、リベラリズムの出発点とされるロールズや、リバタリアニズムハイエクノージック、さらにはコミュニタリアニズムのサンデルなど、大御所の議論を全部拾うのは、今の僕の能力では難しい。見取り図としてこの本*4を読ませていただいた。

もっとも、「互酬の経済」や「サブシステンス経済」、さらには「ボランタリー経済」までもが、「コミュニタリアニズム」と親和的である、と直ちに言い切ってしまうのは、ちょっと乱暴すぎるかもしれない。この点については、改めて検討してみたいと思う。

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以下、ここまでの議論の整理と感想。

  • 経済社会はどのようにまわっているのか? あるいは経済社会をどのように設計しうるのか? といった論点に関する議論を管見すると、家族類縁的な三角形を描くことができた。
  • 三角形の頂点が何を表すのかについては、以下のように整理できる。

 

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  • 領域Ⅰの中には、「自然(1次産品)からの恵みを大いに活用する経済」というニュアンスと、「自発的に助け合う」というニュアンスが含まれている。2つのニュアンスをどう整理するか?
  • 個人的には、「里山資本主義」のさらなる理解や普及のためには、2つのニュアンス両方に対する理解が必要になると考えている。
  • ついでにいえば、三角形思考は、二項対立の問題点を多少なりとも緩和するために重要である。

以上、考えたことを、考えた順に書きなぐってみた。あとでその先をまた考えたいテーマなので、稚拙なメモに近いけれども、敢えて公開しておくことにした。

ところで、こうやって整理してみると、社会科学は同じところをグルグルと回っているだけなのかもしれないな、とつくづく思う。

*1:Bertram, I. G. and R. Watters (1985) "The MIRAB Economy in South Pacific Microstates," Pacific Viewpoint, 26(3): pp.497-519.

*2:といっても、開発経済学の古典と言われる程度には有名なのだが…

*3:Polanyi, K. (1957) “The Economy as Instituted Process,” K. Polanyi, C. M. Arensberg and H. W. Pearson (eds.) Trade and Market in the Early Empires, Glencoe: The Free Press, pp.243-270(石井 溥訳「制度化された過程としての経済」K. ポランニー/玉野井芳郎・平野健一郎編訳『経済の文明史――ポランニー経済学のエッセンス』日本経済新聞社、1975年、259-298頁).;Polanyi, K. (edited by H. W. Pearson) (1977) The Livelihood of Man, New York: Academic Press(玉野井芳郎・栗本慎一郎訳『人間の経済I――市場社会の虚構性』;玉野井芳郎・中野 忠訳『人間の経済II――交易・貨幣および市場の出現』岩波書店〔岩波現代選書【特装版】〕、1998年).

*4:有賀 誠・伊藤恭彦・松井 暁編(2000)『ポスト・リベラリズム:社会的規範理論への招待』ナカニシヤ出版。

松山自動車道のアップダウンを可視化してみる

滑床渓谷を散策した際、久しぶりにGPSロガーを使った(cf. 滑床渓谷へ - にゃまぐち研究室)。ところが、スイッチをoffにすることなく、家路に就いてしまった。つまり、車で高速(松山自動車道)を移動している際にも、GPSのログをとってしまっていたわけである。

普段なら、そんな無駄ログはさっさと削除するに尽きるわけだけれども、よくよく考えてみると、松山自動車道のアップダウンを断面図として見てみるとどんな風に見えるのか、気にならなくもない。
そこで、せっかくなので、松山自動車道のアップダウンを可視化してみることにした。ただし、滑床渓谷から松山市内の自宅に帰る際のものなので、ログをとることができたのはあくまでも三間IC~松山IC間(上り線)だけである。

また、図中の三間ICの位置は、本線(上り線)と合流した地点を示している。その他のICの位置は、高速から降りるための減速車線が本線(上り線)と完全に分岐した地点を示している。さらに、煩雑化を防ぐために「トンネル」のことを「T」と表記してある。

 

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標高の高い区間

データ上の最高点は、黒岩岳トンネルの内子側入口から少し進んだ地点の標高349mであった。とはいえトンネル内の計測値なので信頼しない方がいいかもしれない。ちなみに内子側入口の標高は333mであった。

また、西予と大州の境目にある鳥坂トンネルの標高もそこそこ高い。こちらもトンネル内で標高340mを計測している。また、西予側入口の標高は328m、大州側入口の標高も328mであった。

繰り返しになるが、GPSデータは正しく計測されている保証はない。したがって今回計測したデータから、厳密な意味での最高点を割り出そうとはしない方がいい。

とはいえ、ザックリと考えて、黒岩岳トンネル、鳥坂トンネルの2つのトンネルが、松山自動車道において相対的に標高の高い二大区間とみておくことに問題はないであろう。どちらのトンネルも標高330m程度のところにある。

そして、トンネルの前後は、相対的に急傾斜の坂道になっている。

印象深い坂道について思い出してみる(下り線)

下り線を走っている場合のことを思い出してみたい。

伊予ICを過ぎたあたりから上り坂になる。知らず知らずの間に速度の落ちる区間である。路肩には「速度減少注意」というような表示もあったと記憶している。

その後、明神山トンネルに入ったところで、前の方の車が速度を落としているらしく、プチ渋滞することがよくある。トンネルに入ると、道幅がせまく感じるためか、無意識のうちに減速してしまうドライバーが多いためだろう、と思っていた。しかし、GPSデータからわかるのは、トンネルの伊予側出口と内子側出口の標高差である。ここからトンネル内も上り坂になっていることがわかる。正直言って、トンネル内も上り坂になっていることについては、運転していて印象になかった。明神山トンネル内のプチ渋滞は、トンネル内効果に加えて、上り坂効果のせいでもあるということだろう。

そして明神山トンネルを抜けると、黒岩岳トンネルの手前まで続く2車線区間に突入する。遅い車を追い抜きたいのだが、斜度のキツい上り坂であるため、なかなか思うように加速することができない。車のスペックの差が出る区間でもある。僕は普段はミッション車を運転しているのだが、ここで加速したい時はギアを3速に入れる。また、遅いのに登坂車線に移動しない車がいてイライラすることも多々ある。ともあれ、この区間の斜度のキツさは、GPSデータにもよく表れているように思う。

岩岳トンネルを抜けたあとは、一転、下り坂で高度を下げていくことになる。トンネルを出てすぐのところに、いちおう2車線区間があるけれども、距離が短いため、よほど遅い車が前を走っていない限りは、追い越しをかけないようにしている。

下り線の場合、大洲松尾料金所を過ぎてからの、上り坂の2車線区間も、印象的である。料金所で時速20~30km程度までスピードを落としてからの急加速が必要になるため、ここでもやはり車のスペックの差が出る。ミッション車は3速推奨。この上り坂でしっかりと高度を上げるからこそ、その先の鳥坂トンネルに辿り着くことができるわけである。

こうやって思い出してみると、やはり、黒岩岳トンネル手前と、鳥坂トンネル手前が、二大急坂である。われわれはトンネルに辿り着くために高度を上げている、といっても過言ではない。

印象深い坂道について思い出してみる(上り線)

 今度は南予から松山方面をめざす場合について思い起こしてみたい。

鳥坂トンネルを抜けたあと、大洲松尾料金所に至るまでの長い下り坂の2車線区間は、追い抜きをかけるのか、かけずに走行車線を走るべきなのか、迷うところでもある。料金所のETC専用レーンは左側にあるので、料金所の手前で追い越し車線から走行車線に戻る自信がある場合のみ、追い越しをかける。僕の場合、よほど遅い車がいない限りは(あるいはかなり空いている時間帯でない限りは)、走行車線を走ることにしている。

僕と同様、地元ナンバーの車はこの区間ではあまり無理をしない印象。ただし、県外ナンバーの車の中には、追い越しをかけていって、料金所の手前で無理やり走行車線に戻ったり、あるいは戻れずにそのまま一般車・ETC車兼用レーンに入らざるをえなくなるパターンを目撃することも、一再ならずあった。

正直言うと、上り線には、上記の区間以外に印象的な坂道は思い浮かばない。下り線よりも登坂車線の数や総延長が短いように思う。

強いて言うならば、明神山トンネルに入る手前の区間、伊予ICに向かって高度を下げていく区間、松山ICに向かって高度を下げていく区間などでは、とくに夕暮れ時に車のテールランプが連なって綺麗だなと思う。最後の松山IC手前の区間では、松山平野の夜景の中に飛び込んでいく感じも味わうことができる。

標高の低い区間

大洲料金所から大洲北只IC手前までの区間大洲道路になる。この区間は、上下線ともに最も長い2車線区間であると同時に、最も標高の低い区間でもある(今回の計測区間からは外れている宇和島朝日IC付近の方が低いかもしれないが…)。

大洲料金所の近辺は、昨年7月の豪雨で水没した*1。データを見て、改めて、大洲盆地の標高の低さを実感できた。

宇和盆地と三間盆地は意外と標高が高い

山岳区間の影に隠れて見逃してしまいがちだが、宇和や三間の標高は意外と高い。冬場に南予方面に用事がある際、鳥坂トンネルを抜けて宇和盆地に入ると、雪景色の歓迎を受けることがある。高校地理では、準日本海側気候の影響と習った記憶があるけれども、標高の高さも考慮要因かもしれない。

おわりに

以上、松山自動車道のアップダウンを断面図として可視化してみて、何となく気づいたことを書き綴ってみた。標高差300mを上ったり下ったりする、エンジンに負荷のかかる高速道路である、と、まとめてみようかと思ったが、他の高速道路、たとえば中国道や九州横断道もこれくらいの起伏はあるかもしれない。普段の自分の運転を省みるいい機会にはなった。